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決戦は日曜日 ラグビーW杯準々決勝は平尾誠二さんの命日

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決戦は日曜日 ラグビーW杯準々決勝は平尾誠二さんの命日

いよいよラグビー日本代表の運命の決戦です。対戦は南アフリカ代表。前回大会ではその南アフリカに勝利した日本代表。しかし、ワールドカップ直前のテストマッチではその前の試合3連勝と期待が高まったなか7-41と大敗をしている。しかしワールドカップ中に日本代表は世界ランキング6位まで対戦する南アフリカはランキング5位です。テストマッチの結果に臆することなく戦って勝利を掴んで頂きたい。決戦はミスターラグビー平尾誠二さんの命日です。きっと平尾さんが背中を押してくれることでしょう!更なる快進撃をまだまだみていたいですよね?

失敗プロジェクトと銀のレガシー

高橋 銀太郎(35)(平尾プロジェクト1期生、元クボタ・スピアーズ副将)

新潟から1人で新幹線に乗って上京した12歳の少年は、集合時刻の2時間も前に、秩父宮ラグビー場に着いた。隣接する日本ラグビー協会の事務所に行き、職員に頼んで入り口の扉を開けてもらって、憧れのグラウンドに足を踏み入れた。1996年10月13日に行われた「平尾プロジェクト」の選考会。新潟・亀田町立亀田中の1年生だった高橋銀太郎は、最年少の参加者だった。

「ラグビー雑誌で、平尾プロジェクトがあるという記事を読んだのは、選考会の前の年、小学6年生の頃でした。選考会場の秩父宮は、日本ラグビーの聖地。それまでに試合を見に行ったことは何度かあったけど、グラウンドに立ったことはありませんでした。『秩父宮に入ってみたい』という一心で、父に『応募してもいいかな』と聞いてみました。ラグビー好きで平尾さんのファンだった父は『おう、やってみろよ』と。それで応募してみたんです」

平尾プロジェクト――。ミスターラグビーと呼ばれた平尾誠二が、選手生活の終わり頃、兼務していた日本代表強化委員という立場で発足させた育成事業だ。選考会前年のワールドカップ(W杯)での大敗をふまえ、長身や俊足など一芸に秀でた21歳以下の無名選手を発掘し、将来の日本代表に育てることが目的だった。第1回の選考会には80人が応募し、高橋ら44人が書類選考を通過。実技試験には、自衛官やソフトボール選手らラグビー未経験者を含む31人が参加した。

実技試験には当然、責任者たる平尾が登場。芝生の上に座った参加者たちに、プロジェクトの趣旨や試験の内容を説明した。スターの雰囲気に圧倒され、周りの参加者たちが身を硬くして話を聞く中、高橋は少年らしい行為に及ぶ。

「芝生をちぎって、ポケットに入れたんです。平尾さんが話している間、こっそりと、見つからないように。合格する自信なんて全くありませんでしたから、僕がここへ来る機会はもう二度とないだろうと思ったんですね。高校野球で、球児たちが甲子園の土を持って帰るような感覚じゃないでしょうか。意外にも、秩父宮にはその後何度も戻って来ることになりましたし、そもそも芝生をむしるのは良くないですけどね」

1996年11月23日、秩父宮ラグビー場での平尾プロジェクト第1回講習会で。12歳の最年少で参加した高橋銀太郎は、憧れの平尾誠二から指導を受けた

飛距離不足、帳消しの一言「10年後の僕を見て」

選考会の実技試験は、キッカー、ジャンパー、スプリンターに分けて実施された。高橋はキッカーで受験。プレースキックは、ハーフウェーライン上、中央の位置にボールを置いて、ゴールめがけて蹴るよう指示された。

「雲の上の存在だった平尾さんが、真横に立って見ているんです。当時はキックティーではなく、地面に砂を盛ってボールをセットしていました。すごく緊張して、蹴るまでに時間がかかってしまった。協会の人か誰かが、事前にボールをセットしておいてくれたらいいのに、と思いましたね」

合格基準は「飛距離50メートル以上」と設定されていた。

12歳の少年には、かなり高いハードルだ。しかも高橋は、小学3年からラグビースクールに通ったものの、中学にはラグビー部がなかったため、サッカー部員になっていた。受験時に地元で楕円球を扱う機会といえば、父がプレーしていた「新潟不惑」というおじさんたちがラグビーを楽しむチームの練習に加えてもらう程度。当時の新潟には、中学生が日常的にラグビーをプレーできる環境が、ほとんどなかった。

「30メートルくらいしか飛びませんでした。でも、平尾さんから『すごくきれいなフォームで、まっすぐ飛んだな』って言ってもらいました」

そんな実技試験が終わると、個人面談があった。平尾と、初めて1対1で言葉を交わした。

「緊張して、ほとんどしゃべれませんでした。ただ、応募者の中で一番幼かった僕に、平尾さんが『よく来てくれたな。こんなの大して緊張するところじゃないよ』と言ってくれたのは、覚えています。集合の2時間前に着いたことも『どれだけやる気なんだよ』と、いじられました」

「和ませてもらったおかげで、僕は一言だけ、平尾さんに伝えることができました。『10年後の僕を見てください』。ラグビーができない環境にいる自分には、現在ではなく、未来をアピールするしかないだろうと考えたんです。後に『銀ちゃん、あの言葉は良かったぞ』って、平尾さんにも言ってもらえました」

しっかりしたアピールと意気込みで、キックの飛距離不足を吹き飛ばした。しばらくして、新潟の高橋家に、平尾プロジェクト1期生の「特別枠」での合格通知が届く。「本当にウチの息子が合格しちゃったのか」と、両親は驚きを通り越して笑い出した。

秩父宮でむしった芝、合格通知、亡き父が熱心に集めてくれていた当時の新聞や雑誌の切り抜き。思い出の品々を、高橋は青いファイルケースにまとめて、今も大切に保管している。

グースステップ in 菅平

1期生を集めた講習会は、実技試験の約1か月後に始まった。高橋以外の合格者は、身長2メートルを超える大学生ら5人。その後しばらく、講習会は2、3か月に1度ほどのペースで実施された。

平尾から直接教わることもあれば、日本代表や高校日本代表などの合宿に特別参加して練習を見学したうえで、そのチームの指導者から教わることもあった。次の講習会までにやるべき練習メニューを渡されたことはない。集まった時に習ったことを持ち帰って、それぞれが自由に自分を磨けばいい、という指導スタイルだった。

平尾に受けた技術指導で、高橋が今も覚えている場面がある。グースステップだ。1991年の第2回ワールドカップ(W杯)で優勝した豪州代表の名選手デビッド・キャンピージが得意とした、足を振り上げて相手を幻惑するステップである。1997年7月、長野県の菅平高原。約半年前に日本代表の監督に就任していた平尾は、ジャパンの代表候補合宿にプロジェクト生を呼び寄せ、チーム練習が終わった後のグラウンドに集合させた。

「『グースステップやるぞ』って、グラウンドの端っこで手本を見せてくれました。平尾さんがやると、格好いい。まず、たたずまいが格好いい。動くと、それがまた格好いい。『ちょっとまねできねえな』って思いながら、見ていましたね。ほかの受講生も、ボーッと見とれていました。平尾さんは『そんなに見るなよ』みたいな感じで、なんか恥ずかしそうでしたけど」

「平尾さんが教えてくれるのは、基礎的なことではなく、面白いプレーや楽しいと思えることばかりでした。世界のトップ選手がやるステップを踏めるようになったら、楽しいって思うじゃないですか。グースステップは、芝生の上にコーンを置いて『右足で踏んだら、振り上げて、下ろす位置は――』というふうに教わりました。ただ、僕にはできませんでしたね。大人になって、やってみたことがあったんですけど、後でビデオを見たら、全然使えていませんでした……」

この菅平合宿では、当時の日本代表選手たちに、何かと面倒をみてもらった楽しい思い出もある。特に当時25歳でバックスの中心選手だった元木由記雄は、キックやパスの基本技術をグラウンドで手取り足取り指導するばかりか、夜になると「銀ちゃん、行こうか。うまいもの食わせてやるよ」と、宿舎から連れ出してくれた。元木や増保輝則ら、平尾ジャパンの主力メンバーたちが一杯酌み交わしてラグビーを語り合う傍らで、高橋少年は話に耳をそばだてつつ、ジュースを飲んでモリモリ食べた。

1998年夏、菅平での日本代表合宿で、平尾監督(中央)が元木(左端)らを指導。前年の代表候補合宿には、プロジェクト生たちも特別参加していた

金言「逆にプラスだ、いろんなスポーツを経験できる」

合宿参加や講習会のほか、高橋は学期末になると、平尾の面談も受けていた。

「学校の通知表を平尾さんに見せて、話をするんです。体育は一番上の評価だったので、それは褒められました。勉強のことを厳しく注意されるわけでは、全然ないんですけれども『数学とかの勉強も面白いぞ。やっておけば、いろんなことに通じるよ』という話は、してもらいました。僕としては、お父さんと話しているような感覚でした」

ラグビー選手はラグビーだけやっていればいい、という考えを、平尾は持たせたくなかったのだろう。面談や講習会で平尾と話す機会があると、高橋は何度となく「いろんなことをやりなさい」と言い聞かされた。とりわけ深く胸に刻まれたのは、地元の新潟に中学生がラグビーをする環境が全くないことを嘆いた時の返答だ。

「平尾さんは『いいじゃないか。いろんなことができる。ラグビーができない環境だからこそ、できることがあるだろう』と、言ってくれたんです。『みんながラグビーに夢中な時に、お前はバスケだとかサッカーだとかいろんなスポーツをやれる。それでラグビーに戻ってきた時には、お前の方がいっぱい経験を持っているんだぞ』って。僕には、ラグビーをやっている子たちに後れをとっているというマイナスイメージがあったんです。それを全部、プラスにひっくり返されちゃいました。すごい人だな、と思いましたね」

付け加えると、京都生まれで神戸に暮らす関西人は、金言を授けただけでは決して、会話を終えようとしなかった。

「まじめに『いろんなことをやってみろ』という話をした後で、『恋愛もな』みたいに、ちょっと笑わせるオチを一言つけるんです。『それはダメなんじゃないですか、平尾さん』みたいな感じで終わる会話ばっかりでしたね」

何の知らせもなく、指導終了

講習会で平尾を中心に、横一列に並んだ平尾プロジェクト1期生の6人

日本ラグビー協会に保管されている平尾プロジェクトの事業報告書によると、選考会は1997年7月にも行われ、第2期生として7人の中高生が合格した。プロジェクト生は計13人に増えた。96、97年度には講習会や代表合宿派遣といった指導が計12回、実施されている。

だが、1998年1月の大学選手権と社会人選手権の準決勝観戦を最後に、記録はプツリと途絶えてしまう。97年度限りで事業は終了したのか、それとも中断したのか。13人は平尾プロジェクトを「修了した」と言っていいのか。そして98年度は、どうして指導を行わないのか。そうした記述が、事業報告書には見当たらない。

高橋は振り返る。

「中学3年の頃(98年度)には、プロジェクトは自然消滅していました。終わったという知らせもないまま、『終わったんじゃないかな』みたいな感じで、誰に聞いても分かりません。プロジェクトの責任者の一人だった先生に聞いても、『途中でなぁ』とかなんとか、言葉を濁すんです」

活動内容も、ただ現場に送り込まれるだけで満足な指導を受けられない合宿派遣や観戦が、回を重ねるごとに多くなったとも感じていた。プロジェクト生の一人として、こんな思いを抱いている。

「もっと、日本協会に、ちゃんとやってほしかったですね。平尾プロジェクトが何を目的にしてやっていたのか、僕にはあまり意図が分からなかった。日本代表を育成するのが目的だったのなら、そこまでのプロセスを作ってほしかったと、すごく思います。大きな声では言えませんが……、やっぱり失敗だったんじゃないですかね」

師弟の結びつきは消えず

ボールを持って、力強く走る東農大二高時代の高橋(2001年11月撮影)

プロジェクトは消滅しても、平尾と高橋の交流は続いた。

高橋は中学卒業後、新潟を飛び出して群馬の強豪・東農大二高に進み、本格的にラグビーを始める。入学すると、「平尾誠二に見込まれた逸材」という周囲の視線にさらされた。まだ自分がどんなタイプの選手なのかも見当がつかないうちに、先輩から「メチャクチャうまいんだろうな」という目で見られた。そのプレッシャーは大きかった。

「その悩みも、平尾さんに打ち明けたことがあります。『それでいいじゃん、別に。名前が売れているんだから。これから実力をつけて、名前に追いつけばいい』って。すごくポジティブに励ましてくれました」

高校時代は、主にスタンドオフとフルバックという2つのポジションでプレー。左腕を3度骨折して落ち込んだ時期もあったが、大阪・花園ラグビー場で年末年始に行われる全国高校選手権に2大会出場することができた。花園での最高成績はベスト16だったが、埼玉県で開催される春の全国選抜大会では3年時に8強まで勝ち進んでいる。高校時代はラグビー選手としての節目を迎えると、平尾に電話で報告していた。

選手生命のピンチ、よみがえる師の教え

トップリーグのクボタで活躍した高橋(中央)

早稲田大に進学して1年生の時、高橋に選手生命の危機が訪れた。

19歳以下(U19)日本代表のセレクション合宿で負った、左すねの開放骨折だ。骨の洗浄の手術、骨を外から固める手術、中から固める手術と、次から次へと計7度もの手術を受けた。「ここまで足をぐちゃぐちゃにされたら、もうラグビーはできないだろうな」と、絶望感に襲われた。

どうにか気持ちをつなぎとめてリハビリに耐え、大学2年生の秋頃から、練習に復帰できた。だが、以前のような走りのスピードが戻らない。そのうえ、強豪・早大には、高橋が狙うポジションに強力なライバルがいた。スタンドオフには啓光学園(現常翔啓光学園)時代にチームを高校日本一に導いた曽我部佳憲。フルバックには後に日本代表としてW杯で大活躍する五郎丸歩。試合に出場する自分の姿を、なかなか思い描けない状況だった。

悶々とする高橋の脳裏によみがえってきたのは、平尾の教えだ。いろんなことをやりなさい――。改めて心のよりどころとしてプレーするうち、少しずつ活路が見えてきた。

「いろんなポジションをやろうという気持ちが芽生えました。スクラムハーフ以外、バックスの全ポジションをやりました。誰が抜けても入れる位置にいて、チームに絡んでいこうとしたんです。自分のスピードが戻らない分、仲間を生かすプレーに目覚めることもできました」

献身性とさまざまなポジションをこなせる強みは、早大のカリスマ監督・清宮克幸にも認められた。4年生のシーズンは、途中出場などで、ほとんどの公式戦に出場し、大学選手権優勝に貢献できた。

「1年生でケガをした時は、平尾さんに合わせる顔がない気がして、連絡できませんでした。このまま、ラグビーからフェードアウトしていこうかなとも思っていたんです。でも、4年生で早大の試合に出始めた頃、平尾さんとラグビー場で顔を合わせ、話す機会があって『よく戻ってきたな。ラグビー、やめていなかったんだな』と言われました。僕からはお知らせしなかったのに、骨折したことを知っていて、そっと気にかけてくれていたんです。すごくうれしかったですね」

早大を2006年に卒業後は、トップリーグのクボタ・スピアーズで活躍した。12~15年には副将を務めるなど、ここでも多くのポジションをこなせる長所を生かしてチームを支えた。

平尾がゼネラルマネジャー(GM)などを務めていた強豪・神戸製鋼とも、たびたび対戦した。一泡吹かせて恩返し、という場面はなかなか作れなかったものの、試合会場で顔を合わせるたびに、いつも明るい笑顔で接してもらった。

「『銀ちゃんも、もう社会人か』『クボタに入ったな。敵だな』って、お会いするたびに、平尾さんから言われましたね。『調子どうだ』とか『ケガしてないか』と、気にかけてもいただきました。プレーについてのアドバイス? いや、それはありませんでしたよ。『敵』なんで」

「僕にきっかけを与えてくれたのは、プロジェクトでの平尾さんとの出会いです。それがなかったら、そのまま新潟にいたかもわからない。僕の視野を広げてくれた恩師。おかげさまで、2016年に引退するまで、ケガのどん底も優勝の喜びも知っている、いいラグビー人生を送ることができました」

歯科医、議員、カメラマン…輝ける人材の宝庫

クボタ東京本社でインタビューに答える高橋(2019年5月10日)

将来の日本代表育成を目的に掲げていた平尾プロジェクトだが、代表までたどり着いた選手は、高橋を含めて一人もいない。ただ、様々な分野で活躍する人材を輩出している。

ラグビーの分析担当、歯科医師、元アナウンサーの東京都議会議員、NHK・大河ドラマのカメラマン……。ひょっとすると平尾は、ラグビーで力を発揮できそうな選手を選んだのではなく、各界で活躍できるユニークな人材を見抜いて合格させ、ラグビー体験を通じて彼らの人間性を磨こうとしていたのではないか、などとも想像したくなってしまう。高橋は、こう言う。

「スポーツ界にはいろんな才能を持った人材がいて、その人たちを集めればチームとして成り立たせることができると、教えてもらった気がします。ラグビーしかできないのではなくて、バランスのいい人間、いろんな才能を持った人間は、いい人材として活躍していくというイメージです。(人選そのものが)枠にとらわれないで何でもやれという、平尾さんのメッセージだったのかな」

高橋は引退後もクボタの社員として、東京・京橋のオフィスで働いている。現在の部署では、ポンプやバルブなど、水にかかわる製品を途上国に普及させる事業を担当。平尾に授かったポジティブな精神は、高橋に根付き、ビジネスマンとしての力も生んでいる。

「入社して10年間ラグビーをやってきたので、なかなか仕事が追いつかない。ビジネスの経験が少ないのが、弱みだと思っています。でも、10年間やれなかった分、新しい見方ができるとか、柔軟な発想でいろんなことに取り組めるとか、前向きにもとらえられます。弱みは決してマイナスではなくて、プラスにもなる。これは、平尾さんから教えてもらったことです」

一芸に秀でた人材を集めた平尾プロジェクトの根本には「弱みの克服よりも強みを生かせ」という思想があったが、それに通じることを高橋は、平尾以外に影響を受けた指導者からも教わってきた。早大時代の清宮監督。クボタでは元豪州代表のナンバー8、トウタイ・ケフだ。

「清宮さんは『弱みなんてどうでもいい。ラグビーは15人もいるんだから、誰かがカバーすればいいだろ』。ケフからも『タックルの弱みを克服する時間があったら、キックや司令塔としてのプレーなど、強みを伸ばしてチームのためになれ』と言われました」

最近は、仕事で訪れるミャンマーや故郷の新潟で、子どもたちにラグビーを教える機会もしばしば。そんな時、高橋は平尾たち恩師の言葉を継承している。

「『ポジティブにとらえようよ』と言っています。『いろんなことをやりなさい』とも。日本は弱みを克服する文化で、100点の能力と20点の能力があったら、20点の方を上げる努力をしようとする思考じゃないですか。でも僕は『100点の方を伸ばしたらいいよ』と、子どもたちに伝えています」

平尾プロジェクト自体は、目的を果たせずに終わった。しかし、偶然かもしれないが、レガシー(遺産)として多様な人材を世に送り出した実績は認められていい。高橋のように、平尾から授かった思想を次世代に受け継ぐ受講生も育んだ。他競技から人材を集める手法は現在、7人制ラグビーを始め、様々な競技で活用され、定着してきた。23年前、平尾が目指したことは、時代の先を行きすぎていたのかもしれない。(本文中敬称略。読売新聞オンライン・橋野薫、込山駿)

高橋 銀太郎(たかはし・ぎんたろう)

1984年2月3日生まれ。新潟・亀田小3年でラグビーを始める。亀田中1年で平尾プロジェクト1期生に合格。群馬・東農大二高を経て早大へ。4年で全国大学選手権優勝、続く日本選手権ではトヨタ自動車を破って4強入り。2006年、クボタ入社。バックスの全ポジションをこなす万能型の選手として活躍し、12~15年は副将を務めた。16年に現役引退。身長体重は、平尾プロジェクト合格時が1メートル50、45キロで、クボタ時代が1メートル74、82キロ。現在は環境海外推進部営業グループ担当課長。一女の父。

スペースを突け! V7への師弟連係

読売新聞 2019/07/19 15:45配信記事より引用

藪木宏之(53)(元神戸製鋼スタンドオフ、日本ラグビー協会広報部長)

神戸製鋼の神戸製鉄所経理部で、社内電話が鳴った。1988年11月22日、火曜日。受話器を取った藪木宏之は、平尾誠二に、こう言われた。「きょう、早くグラウンドに来られるか?」

上司の許可を得て午後4時半頃、神戸市の埋め立て地にある灘浜グラウンドに着いた。22歳のラグビー部ルーキーだった藪木は、クラブハウスの2階にあった幹部部屋に、おずおずと足を踏み入れた。すると、待ち構えていた25歳の平尾主将から「着替えてグラウンドに出よか」と誘われた。

グラウンドでは「タッチキックを蹴れ」と指示された。2人きりのラグビー場に、楕円球の弾む音だけが響いた。

「平尾さんがパスをして、私が蹴る。それを10分くらい繰り返したら、『俺とあんまり変わらんな。分かった、エエわ』って、それだけ。どういう理由でキックをやったのかも、何が『俺と変わらない』のかも、分からない。何の説明もないから。でも、そこがあの人らしい。いつも突然なんです。何かをやる時、平尾さんの頭の中には、もう構想があるんですけど、表には出さない。後になってから、いろんなことが分かるんです」

藪木は、スクラムハーフとして山口県の大津高3年で全国大会4強入り。明治大に進んだが、同じポジションに同年代のライバルが多数集まっていて、大学4年間の公式戦出場はわずか2試合にとどまった。神戸製鋼でもベテランの萩本光威がレギュラーの座をがっちり握っており、その年のシーズン序盤は控え選手だった。

2人きりのキック練習の後、全体練習があった。週末に試合がある場合、火曜日はメンバー発表の日で、藪木はそれまでの試合と同様、萩本の控えとして名前を呼ばれた。

日本ラグビー協会には、1989年に日本代表がスコットランド代表を破った後で胴上げされる平尾誠二の写真が飾ってある。その前で、思い出を語る藪木宏之(2019年6月20日、込山駿撮影)

10番転向、滑り出し快調

キック練習の意味は、1週間後に明らかになった。

関西社会人リーグの大一番、トヨタ自動車戦を控えた火曜日。また同じように平尾からの電話が来た。「きょうも、早く来られるか」。クラブハウスの2階に上がると、今度は突然の通告を受けた。「今週のトヨタ戦、お前が10番で出ろ」

当時の神戸製鋼は、監督やヘッドコーチといった指導者がグラウンド外にはおらず、主将を中心に選手がチームを運営する体制だった。選手起用については、主将の平尾の意見がほぼ通った。

背番号9のスクラムハーフと背番号10のスタンドオフは「ハーフ団」と呼ばれ、ゲームメークの中心となる。ただ、試合での役割は大きく異なる。藪木は高校、大学、そして入社後も、9番一筋だった。スタンドオフが担う大切な役割のひとつに、陣地を挽回するタッチキックがあり、その能力を平尾は1週間前に試したのだった。藪木は大事な試合で、それまで平尾が背負っていた10番のジャージーを着ることになった。

「驚きましたけど、喜びが大きかったです。ポジションが変わることよりも、素晴らしいプレーヤーがたくさんいる神戸製鋼で、試合に出られる喜びの方が。大学でも、私はほとんど試合に出ていなかったですから」

背番号12のセンターに回った平尾からは、こんなアドバイスを受けた。「好きにやれ。前が空いていたら走ったらいいし、パスしたいと思ったらパスしてこい。あとは俺がなんとかする」。ごくシンプルな頼もしい言葉で、藪木の緊張感を吹き飛ばしてくれた。

「実際にスタンドオフの位置に立って感じたのは『ラグビー場がこんなに広く、よく見えるんだ』ということ。フォワードの周りしか見ないスクラムハーフとは、見える景色がまったく違いました。これだけ広いフィールドを自由に走っていいんだったら、やれるんじゃないかという気になりましたね」

テストされたタッチキックをほとんど使わず、80分間伸び伸びと走り回った10番・藪木。43-18の快勝でデビュー戦を飾ると、その後も出場機会を得た。チームは関西社会人リーグを2位で終え、初優勝を目指す全国社会人大会に駒を進めた。

偉業の幕開け、語られなかった転向理由

このシーズンから主将に就いた平尾は、関西社会人リーグで、フォワードの中心選手だった大八木淳史や大西一平を、それまでと違うポジションで起用し、試行錯誤していた。藪木の10番も、その一環だろうとみなされていた。

しかし、全国大会前のミーティングで、平尾は周囲に宣言した。「今年は藪木と心中ですわ」

「その時まで『ほんとに(10番が)藪木でいいんか?』という雰囲気が、チーム内には確かにあったんです。平尾さんのあの言葉があったから、チームメートに納得してもらえました」

神戸製鋼は、大八木や林敏之といったフォワード陣が、行けるところまで突進を続けるパワーラグビーのチームだった。反面、その突進が止められた時の密集から、いいボールがバックスに回らないという欠点を抱えていた。ところが、フォワードとバックスをつなぐ10番のレギュラーが、名手・平尾から未経験者同然だった藪木へ代わった時から戦いぶりが一変した。

「フォワードの先輩方が、突っ込み過ぎずに『腹八分』みたいなところでとどめ、藪木にいいボールを出してやろうとしてくれました。スクラムハーフの萩本さんも、捕りやすいパスを放ってくれました。いわば『素人の藪木』が、チームにシナジー(相乗効果)をもたらし、一体感が生まれたんです。これが、平尾さんの考えには、最初からあったんじゃないですかね」

藪木も、先輩たちの心遣いに、プレーでこたえた。持ち前のスピードを生かし、自由自在に駆け回ってボールをつなぎ、神鋼に新風を吹き込んだ。

「萩本さんからは『お前のスタンドオフ、どこにいるのか分からへんのが、おもろいわ。それと、藪木―平尾の並びだとラインスピードが上がる。メチャメチャ速い』と言われました」

1989年1月の日本選手権で、大東大からトライを奪う神戸製鋼の平尾

このシーズン、神戸製鋼は全国社会人大会を初めて制し、続く日本選手権でも大東大を退けて初優勝する。これが、7年連続日本一という偉業の幕開けだった。

ところで、平尾はなぜ、藪木をスタンドオフに転向させたのだろう。

「ずっと理由を聞きたかったんですけど、ついに一度も説明がなかった。心構えや技術的な指導を受けた覚えもない。平尾さんは高校時代、スタンドオフだったし、神戸製鋼でも私が入るまで10番でした。普通、企業でも引き継ぎとかがあるじゃないですか。でも、一切ありませんでした。だから、私は平尾さんの10番としてのプレーをまねしたこともないんですけどね」

平尾は、松岡正剛・編集工学研究所長との対談を収めた『イメージとマネージ』という著書で、藪木本人には伝えなかったポジション変更の理由を、こう説明している。「練習のときの走り方を見ているうちに、思いついたんです」。松岡から「藪木はキックがあまりうまくない選手でしょ」と水を向けられると、「ヘタと言った方があたってます」とも言い放っている。

平尾にとって、2人きりのキック練習は、藪木のキック能力を試したというよりも、神鋼ラグビーからキックという攻め方を極力減らし、ボールをつなぐラグビーへと転換する決断のきっかけだったのではないだろうか。

史上最高、劇的すぎるV3

つなぐラグビーの真骨頂を、神戸製鋼が天下に示したのが、3連覇を決めた三洋電機との全国社会人大会決勝だ。1991年1月8日、東京・秩父宮ラグビー場。社会人ラグビーの試合では史上最高の名勝負と、今なおファンに語り継がれている。

神鋼は序盤から、トンガ生まれの日本代表フォワード、シナリ・ラトウらを擁する三洋のパワーに押し込まれた。後半40分を過ぎて12-16とリードされたうえ、自陣から抜け出せないという絶望的な状況に追い込まれた。

だがここで、神鋼陣内での密集から、藪木へとボールが渡る。藪木は少し前へ走って強烈なタックルを受けつつ、隣にいた味方選手ではなく、右サイドの誰もいない場所をめがけてパスをした。このボールが、芝生の上でワンバウンドする。

そこへ平尾が、スピードを落とさずに走り込んできた。どちらへ跳ねるか予測できないはずの楕円球が、平尾の胸にすっぽりと収まる。平尾は相手の位置を見極め、その手が届かないように弧を描くパスを右タッチライン際へ放った。これを捕球した快足ウイングのイアン・ウィリアムス(オーストラリア代表)が、約50メートルを突っ走る。ただ一人追いすがってきた三洋のワテソニ・ナモアを振り切り、中央まで回り込んで同点トライ。正面からのゴールキックは、フルバックの細川隆弘が丁寧に決めた。18―16となり、その瞬間にノーサイド。あまりにもドラマチックな、神戸製鋼の逆転勝利だった。

1991年1月の全国社会人大会決勝、神戸製鋼のウィリアムスが土壇場で決めた同点トライ。追いすがる三洋電機のナモアをかわした

ワンバウンドになったパスを、藪木はこう振り返る。

「私のミスパスです。ただ、私の右隣にいた藤崎(泰士)さんに対して相手防御がすごい勢いで出てきていたのと、藤崎さんの向こう側にスペースがあるのは、見えていました。だから、そこに投げたんです」

「神戸製鋼は、スペースにパスをして、そこに走り込む練習ばかりしていました。見つけたスペースに球を放って、ボールがつながらなかったら、放ったプレーヤーは悪くない。走り込んできていないプレーヤーが悪いんだと。前のシーズンに指導を受けたオーストラリア人コーチから『スパイス、スパイス!』と母国なまりで連呼されたのを取り入れて、我々はスペースに走り込む感覚を身につけていたんです」

ボールをつなぐラグビーを掲げるチームなら、展開ラグビーの伝統が根付く早稲田大学をはじめ、それまでの日本にも決して珍しくなかった。だが、捕りやすいところに投げて攻撃を続けるのではなく、人のいないスペースを突くことを掲げるラグビーは、極めて大胆で斬新だった。

藪木―平尾―ウィリアムスとつながった、あのパス回しこそ、平尾が統率した頃の神鋼ラグビーの思想を体現した連係にほかならない。

バスでの叱責、10番の転機

三洋電機戦の祝勝会を終え、東京駅へ向かうバスの中でのことだった。藪木は初めて平尾にきつく叱られた。

「いつものように、平尾さんの前の席に座っていたら、後ろから『藪木ちょっと、ここ座れ』と声が掛かりました。横に座ったその時まで、優勝したので褒められるのかな、と私は思っていたんです」

「ところが、『藪木、お前きょうの試合、最低やったなぁ』って、シビアな顔で始まりました。『お前が今日やっていた動きは全部、逆や。パスせなあかんとこで、キックを蹴る。蹴らなあかんところで、自分で走る。もう最低や』と言われました。あの人らしいのは、最後に『怒ってるわけちゃうで』とも言うんです。『いや、怒ってますやん』と思いましたけど」

藪木にも思い当たる点はあった。試合を通じて、確かにプレーの調子は悪かった。たとえば、ウィリアムスのトライの直前、藪木は自陣で、相手防御の裏に短いキックを蹴っている。これに味方は追いつけず、ボールが相手の手に渡り、タッチに蹴り出されてしまった。ここでノーサイドを迎え、敗れていてもおかしくない時間帯だった。

「その前の年までだったら、たぶん蹴っていないと思います。自分で持って走っていたかもしれない。自分で自分を戒める言い方をするなら、あれは『格好つけたキック』。あの試合は、そういうのが全部裏目に出ました」

思い起こせば、スタンドオフ転向から2年目まではトントン拍子。チームにしっかり貢献して優勝を重ね、自信をつけて臨んだ3年目だった。

「その自信が、いけなかったんでしょう。あの年は『スタンドオフ藪木』というのを、私自身が意識していたんです。キックも蹴らなくちゃいけないとか、こうしなきゃいけないっていうのが、少しずつ頭の中で出来ていた。それまでは『バックスの一人』という意識しかなかったんです。平尾さんも『バックスの中でラグビーのうまいやつを7人選んだうちの1人が藪木だった』と表現したことがありました。ポジションの概念がない、自由なラグビー。私もそのつもりでやっていたのに」

判断ミスを叱責された翌年、藪木は判断力を磨こうとするのではなく、まずは体を鍛え直した。体重が7~8キロ増え、持ち前の走力とスタミナに加え、瞬発力が大幅に上がった。

「体力的に弱いから、プレーの選択を間違っていた面があると思ったんです。スタンドオフの場合、攻撃を続けていくにつれて、自分の前に体の大きな相手フォワードが立ちはだかることが多くなる。そこを避けてパスしたりキックしたりしていたところが、自分にはあった。だから鍛えました」

弱点に直接アプローチするのではなく、弱点の原因を掘り下げたうえで、自己改革に取り組む。このあたりに、新たなポジションを与えても理由を示さず、自分で考えることを促してきた平尾流の育成方針が、藪木にしっかりと浸透していたことがうかがえる。V4を達成したこのシーズンから、藪木は全盛時を迎えた。神戸製鋼V7のほとんどの試合に出場し、中心選手として活躍した。

1992年1月の日本選手権、明治大から藪木がトライを奪う。この試合に勝って、神戸製鋼はV4を飾った

「創造的破壊」が生んだV7

3連覇の翌年度、藪木は海外エンジニアリング事業部に異動し、社業でも平尾の同僚になった。それ以来、平尾はオフィスとグラウンドの往復とも、藪木が運転する車の助手席に便乗するようになった。

片道約20分間。車内ではたわいない会話がほとんどだったが、一度だけラグビーの大切な話をしたことがある。4連覇を目指していたシーズンの最中。その年に加入した日本代表の堀越正巳と大ベテランの萩本がポジションを争っていたスクラムハーフの起用について、平尾から意見を求められた。

「例によって、何の前触れもなく……。グラウンドに着く手前、信号待ちの間に『藪木、お前、どっちがやりやすいねん』と来ました。『えっ』と聞き返したら『いや、ハギさんと堀越や』って。察しますよね、私だって。『これでスクラムハーフのレギュラーが決まるのかな』みたいなことを。『やりやすいのは、3年間一緒にやっていた萩本さんです。お互い、あうんの呼吸でいろんなことができます。ただ、神戸製鋼のラグビーが今後、よりアップテンポにスペースに展開していくには、堀越の速いパスと球さばきが必要になってくるんじゃないですか』と答えました。平尾さんは『分かった』と。それだけです」

その後、堀越が先発として定着した。神戸製鋼でも日本代表でも攻撃をテンポアップさせる役割を担った堀越は、チームを先導する存在になった。

1991年10月、関西社会人リーグの近鉄戦で、神戸製鋼の藪木(右)がトライ。並んで飛び込むのが堀越

神戸製鋼の黄金期を通じて、平尾はメンバーの固定化を嫌い、競争の原理でチームの活性化を求め続けた。萩本から堀越への転換だけではない。バックスに元木由記雄、吉田明、増保輝則という大学ラグビーのスター選手がそろって加入してきたV7のシーズンは、平尾自身がセンターからスタンドオフに戻ってポジションをあけ、藪木をスクラムハーフ堀越の控えに回した。藪木はチーム事情を受け入れ、シーズン終盤には堀越のけがで、日本選手権など大一番の出場機会を手にした。

「平尾さんは『創造的破壊』という言葉で、毎年チームを壊して新しいチームを作ろうとしました。いつも『前の年の神戸製鋼に20点差で勝てるチーム』が目標でした。神戸製鋼を研究している相手チームは、前の年のビデオしか見られない。我々が『20点差以上』のチームを作ってしまえば、相手は勝てないんです」

平尾という希代のリーダーの下、常勝軍団は、意識の高さが他チームとはひと味違った。

カートさえ運転できないスター

ところで、V3を決めた名勝負でプレー選択が間違っていると散々に叱られた半年後、藪木には、おみやげ選びで平尾に褒められた楽しい思い出がある。

海外エンジニアリング事業部の社員として、平尾はリビアのプラントを担当し、藪木はイランを担当していた。1991年6月、藪木のイラン出張が決まった時、思い立ったように平尾がリクエストしてきた。

「『藪木、じゅうたん買うてきてくれ』と言い出したんです」

これは、手ごわい注文だった。平尾は、筋金入りのインテリア愛好家。同志社大を卒業してから神戸製鋼に入るまで、英国に1年間留学しているが、その主目的もラグビーではなくインテリア・デザインの勉強だった。現地で、下手なペルシャじゅうたんをつかまされたら、一体何を言われることやら――。藪木はしばらくの間、気合を入れて勉強した。専門書を読みふけり、ペルシャじゅうたん展にも足を運んだ。

「私は別にじゅうたんに興味ないんですけど、すっかり詳しくなっちゃいました。ノーツと呼ばれる裏側の縫い目の細かさによって、価値が変わるものなんですよね。希望された赤基調の色合いで、まあ、いい値のものを買ってきました。あの時ばかりは、平尾さんに褒められました。『なかなかエエやないか』って」

その後も平尾は、大好きなアンティークを扱う大阪南港にある大型倉庫へ、藪木の運転する車に乗って通い詰め、椅子やら机やらをせっせと買い込んだ。

日本選手権初優勝のトロフィーを抱え、破顔一笑の平尾(1989年1月)

灘浜グラウンドでの練習後も、平尾は藪木の運転で街に繰り出した。藪木は大抵、ライバルとの競争に勝つために居残って自主練習を続けたいと思っていたのだが、平尾の方はさっさとシャワーを浴びて身支度を調え、「藪ちゃん、飯行こか」と声をかけてくる。断る気にはならなかった。店の前で平尾を下ろし、藪木は車を寮に置いて、再び合流するのが常だった。

「そんなにおしゃれな店じゃなくて、ちょっと肉やらパスタやらを食べて、そこから飲みに行くみたいな感じでした。平尾さんはバーボンのソーダ割りが好きで、行きつけのバーに行くと『バーソちょうだい』って注文するんです。マスターを交えて、わいわいとアホな話ばっかり。そうやって飲んだ後、家に帰って一人で考えている時間に、一番いいアイデアが浮かんだそうです」

何かにつけて、平尾が藪木の車を自分の足にしていた理由は、至って単純。彼は、運転免許を持っていなかったのだ。なぜ取得しないのか、藪木は尋ねてみたことがある。

「路地に入ると、死角から人が出てきたり、車が出てきたりするんじゃないかと、勝手に想像してしまうそうです。『俺、それが怖いんや』って。だから運転しなかった。繊細で、想像力が豊かなんでしょうね」

運転といえば、オーストラリア遠征中、息抜きのゴルフを楽しんだ時の一幕も思い出される。

「『藪ちゃん、ちょっとカート運転させて』って言うから、代わったんですよ。そうしたら、平尾さんって、内輪差とかが全然分かってないものだから、やたらと変なところに乗り上げるんです。免許がなかったのは、単に運転の技術がなかったからなのかもしれません」

公私ともに間近で接してきた藪木が、いつも平尾に感じていたのは、意外と抜けたところも多い人間味だ。

「いつも私の車で移動するのに、あの人、車にはガソリン代がかかることが、あんまり分かっていなかったんじゃないですかね。出してもらったことがない。ラグビーの遠征に出れば、同じ部屋になることがほとんどなんですけど、私が平尾さんの洗濯物をきれいにたたんで、スーツケースを整理していました。次の遠征先に行くと、またクチャクチャにしてしまうから、また整理するんです。でも『ありがとう』と言われることはありません。車にしたって洗濯物にしたって、私は世話をしているという意識なんて全然なかったし、平尾さんもやってもらっているという意識がなかったのでしょう。そういうところが、お互いに居心地がよかったんじゃないですか」

肩のこらない、気遣い無用の関係は、2人がそれぞれ現役を退いた後も続いた。藪木が神戸製鋼の東京広報部に異動する2005年頃までずっと、車の助手席は、半ば平尾の指定席だった。

明かされた病状、悲しみの京都

平尾は2016年10月20日、胆管細胞がんと約1年間闘った末亡くなった。ごく限られた親しい人にしか、本当の病状は明かさなかったが、藪木には早い段階で告白していた。

「平尾さんが自宅で吐血したのは、2015年9月12日でした。その2日後に、私は電話で聞かされました。電話口で、明るく言うんですよ。『おう藪木、俺、血吐いてなぁ』っていうふうに始まりました。胃潰瘍かなと、私は勝手に想像しながら『血を吐くって、どういうことなんですか』と尋ねました。笑いながら『藪ちゃん、深刻なんや』と。『深刻って何ですか?』、『がんや。いろいろ聞かれるやろから、お前にだけは本当のこと言うとくけど、他には絶対言うな』」

自分の身に何かあった場合は、公私ともに仲が良く、神戸製鋼の広報マンという立場にもあった藪木に問い合わせが集中することを、平尾は予期していたのだろう。案の定、平尾の痩せた姿を、テレビ画面やイベント出演時などに見た人たちが、相次いで探りを入れてきた。藪木は自分の判断で、「胃潰瘍で物が食べられないみたいです」と対応した。

平尾は闘病中の2016年2月、東京まで足を運び、日本ラグビー協会の理事会に出席する。終了後、「お茶でも飲もか」と藪木を誘った。熱心に語ったのは、自身の病状のことではない。神戸製鋼と日本ラグビー協会の広報担当兼務を1年間経験し、次年度からの日本協会出向を受けるかどうか迷っていた藪木への、力強いアドバイスだった。

「世界を相手に仕事をしろ、と。ワールドカップについて『こんなの一生、日本に来ないで』と、平尾さんは言いました。そして、自分の著書『求心力』を渡して、『お前がラグビー協会の求心力になれ』と励ましてくれました」

翌月、神戸製鋼の神戸本社で会ったのが、結果的に最後の顔合わせになった。その時は、こう告げられた。

「『これから本格的に治療に入るから、しばらく俺はどこにも出ない。問い合わせがあったら、頼むわ』と、念を押されたんです。その後、1度だけ電話がかかってきました。『もう大丈夫や』っていう感じだったんです。私は、その『大丈夫や』という言葉を信じていて……」

亡くなる直前、関係者を通じて、病状の悪化を伝えられた。見舞いに行くつもりでいたが、間に合わなかった。

「10月19日の夜、平尾さんの病院に行く夢を見たんです。元気よくベッドから起き上がって『おう、藪木』って、握手してくれました。翌朝の出勤途中に電話が鳴って、亡くなったと聞かされました」

上の空でその日の仕事を片付けた後、京都に向かった。

「最寄りの駅から、平尾さんがいるところに向け、京都市役所の前を通って鴨川の方へ歩いていきました。その場所がだんだん近づいてくると、あれは一体何だろうな……。試合の緊張感も到底追いつかないくらい、今までにないほど心臓の鼓動が激しくなった。歩けないくらいでしたけど、とにかく会うしかないと思い直して、足を止めませんでした。身内が亡くなった時にも感じたことがない気持ちでした。現実を受け入れたくなかったんでしょうね」

授かった「根性」 いざW杯へ

2018年夏、釜石鵜住居復興スタジアムの完成記念OB戦で、神戸製鋼の仲間や新日鉄釜石の元名選手たちとラグビーを楽しむ藪木(中央)=笠井智大撮影

2016年11月5日、日本代表のアルゼンチン戦は平尾の「追悼試合」。2018年6月16日、日本代表のイタリア戦は「メモリアルマッチ」。日本協会の広報部長として、藪木はたびたび、平尾誠二にささげるイベントを切り盛りしてきた。そして今、平尾が恋い焦がれた日本開催のワールドカップ(W杯)の開幕が、秒読み段階まで近づいてきた。

広報部長席には、平尾の写真が立ててある。記者会見場には、大きなパネルも。その姿がいつも目に入る職場で、藪木はきょうも、世界を相手に仕事をしている。

「私にとって、生きる見本なんです。平尾さんにはなれないですけど、ずっと背中を見てきましたから。まずは、人の話をよく聞くこと。先輩も後輩も関係なく、いろんな人の話を本当に最後まで聞く人でした。私の話もよく聞いてくれました。相手が話し終わると『そうかぁ。まあ、そやけどなぁ』っていう口癖から、平尾さんならではの、いろいろな考えを話し始めるんです」

「よくおっしゃっていた言葉があります。『藪木、根性や。最後は根性や』。意外に響くかもしれませんね」

ラグビーをクールに考え抜き、洗練されたプレーで、格好良く勝利を重ねてきたイメージのある平尾と、根性という泥臭い言葉は、ちょっと結びつきにくい。だが、藪木はこう説明する。

「平尾さんのいう根性は、80分間、最後まで一瞬たりとも切らさない闘争心と集中力です。それがラグビーにとっての『根性』だと。その根性で、病気とも最後まで闘いました」

2011年W杯の日本開催招致委員会メンバーとして、記者会見であいさつする平尾。右端は森喜朗・元首相。この大会は招致できなかったが、その経験が19年大会の招致成功につながった(2004年10月18日)

このところ、呪文のように唱えられている「ワールドカップの成功」とは、何だろう。藪木は、こうとらえている。

「ラグビーという競技が日本でポピュラーな競技になって、注目される国になる。今年のワールドカップが成功と呼ばれるためには、日本代表の強化やレベルアップを超越して、そこまでいかなくちゃいけない。ラグビーの認知度が高まり、日本の生活文化に溶け込み、融合していくようなことを、やり続けないといけない。もちろんW杯後も、継続しなくちゃいけない。そうしないと、平尾さんには褒めてもらえないと思います」

2人の関係は、上から押さえつけようとはしないが、ここぞという時には箴言(しんげん)を授ける師匠と弟子だ。もちろん先輩と後輩、上司と部下でもあった。平尾が兄、藪木が弟のようにも見える。濃密で魅力的な間柄は死によって分かたれたが、兄の思いは弟へ、しっかりと引き継がれている。(文中敬称略、読売新聞オンライン・橋野薫、込山駿)

藪木 宏之(やぶき・ひろゆき)

1966年3月12日生まれ。山口県の大津高に入学してラグビーを始め、3年時の全国大会で4強入り。ノーシードながら、準々決勝で優勝候補の大阪工大高(現常翔学園)を17-13で破った。明大では、1学年下の主将を務めた安東文明らが同じポジションにひしめき、公式戦の出場機会が少なかった。1988年、神戸製鋼入り。88年度から始まったV1~V6はスタンドオフとして、V7は主にスクラムハーフとしてチームの日本一に貢献した。現役引退後は神戸製鋼の広報部員などを務め、2016年4月から日本ラグビー協会に出向して広報部長を務める。

夜の神戸で衝撃の店「許されるのよ、彼だけは」

沢松奈生子(46)(元プロテニスプレーヤー、現解説者)

北野坂は、小粋な店が軒を並べる神戸の繁華街だ。坂道を上って高台に出れば、情緒豊かな異人館街が広がり、明治から昭和初期の洋風建築を今に伝える。平尾誠二と初めて一緒に食事した夜の待ち合わせ場所は、そんな坂の途中だった。沢松奈生子は、ウキウキしていた。

「さすが平尾さん、待ち合わせ場所からして格好いいんだからぁ」

ラグビー日本代表監督時代の平尾誠二(1997年5月撮影)と、平尾との思い出を語る元プロテニスプレーヤーの沢松奈生子(2019年6月撮影)

小粋な1軒目と待ち合わせ、そして…

1998年秋に25歳でプロテニス選手を引退してから、間もない頃だ。10代から年間200日以上も海外を転戦する多忙な日々を送ってきたうえ、実家は門限10時と厳しく、酒をほとんど飲めない体質でもある。夜の街を楽しむような経験がほとんどないまま、テニス一直線で成長してきた。10歳上の平尾の導きで「大人への階段を上る」くらいの気分で、沢松は北野坂を歩いた。

平尾のほかにテニスコーチら2~3人が一緒という顔ぶれで、沢松が紅一点だった。1軒目は、平尾が行きつけの店に予約を入れていた。

「フォークとナイフでカチャカチャ、みたいなお店だろうと想像していました。着いてみたら、アットホームでこぢんまりとした定食屋さんのようなところ。平尾さんに出すメニューは決まっている感じで、注文しなくてもおいしいものが次々と出てくるんです。お店の人たちも、ワイワイと私たちのテーブルへ話しに来ちゃう。まるで平尾さんの家にお邪魔しているみたいに、くつろいだ雰囲気でした」

なるほど大人の男性って、こういうお店に通うものなのか、などと感心しつつ、心楽しい食事を終えた。すると、ほどよく酒が回って上機嫌の平尾から「ナオちゃん、俺の知ってるエエ店が、この近くにあんねん」と、2軒目へのお誘い。門限には、まだ時間があった。全員、喜んでついて行くことに。粋人らしさを発揮した待ち合わせと1軒目の店選びで、平尾のセンスを誰もが信じきっていたが、自由奔放な遊び心の持ち主でもあることは知らなかっただろう。

2軒目の店は、すぐ近くのビルの地下にあった。階段を下りて扉を開けると、異質な空間が広がっていた。

「私の人生、最初で最後の『刺激的すぎるバー』だったんです。その後も含めて私、あの時ほどドキドキした経験ってないと思うなぁ」

あやしい空間でまじめなトーク「私、遊ばれた?」

店員は男女とも、体にぴったりした露出度の高いレザーの衣装を身につけ、仮面舞踏会の参加者がつけるようなマスクをしている。片手に、ある種の「道具」を持って、もう片方の手で飲み物やつまみを運んで客に出す。照明も、あやしい色を帯びている。そんな趣の店だ。

少なくとも沢松が記憶している限りでは、客と店員が一般常識から外れた行為をしたり、されたりするような場面はなかった。きわどいショーやステージ・パフォーマンスの類いも見なかった。

「それでも、夜の神戸の初心者だった私にとっては、あまりに敷居が高かった。目を白黒させて、もうパニック。えらいところに来ちゃったな、って思いましたよ」

「ただし、嫌な感じも全然しなかったんです。だって平尾さん、その店でもラグビーやテニスについて、ずーっとまじめな話をするんですよ。そういう格好をしているお店の人たちも交えて、『ラグビー日本代表は、こうしなきゃいけない』というようなことを、熱く語るんです。私はラグビーに詳しくないから、聞かされてもよく分かりませんでしたけど、話の内容と場所とのギャップは、面白くて仕方なかったですね」

兵庫県西宮市の実家に帰ると、親から「ラグビーの平尾さんと、どこへ行ってきたの?」と尋ねられ、門限10時のお嬢様は答えに窮した。「えーっと、ご飯食べさせてもらってね……。なんかその後、ちょっとお酒を飲んだ」などとごまかし、どうにかしのいだ。

実は、この「刺激的過ぎるバー」に、平尾はしばしば人を同伴している。共通の友人と一緒に酒を酌み交わし、初対面で意気投合した有名な男性バレエダンサーも、連れて行かれたことが分かっている。気の合う年下に出会うと、この店に引っ張り込んでは反応を観察して楽しむ。どうやらそれは、平尾一流のお遊びだったらしい。

「あ、やっぱりそういうことなのか! 私、遊ばれたのか、平尾さんに。でも、いいの。この話、誰にも言ってはいけないことなんだと思って、20年以上も抱え込んできたけれども、こうして解禁できたから、思い残すことはない! さっきから『ナオちゃん、そんなこと人に言うなよぉ』って言われている気がして、上の方から平尾さんの圧を若干、感じるんですけどね」

沢松は天井を見上げて「アハハ」と笑った。

スクール・ウォーズと貴公子ラガー

1987年5月、日本代表合宿で軽快な動きをみせる平尾(中央)

1973年3月生まれの沢松は、小学校高学年で「スクール・ウォーズ」の洗礼を受けた世代に属する。80年代半ばに放送され、大ヒットしたテレビドラマ。荒れた学校に赴任してきた熱血教師が不良少年を更生させ、ラグビー部を高校日本一に導くまでを描いたストーリーは、平尾が主将を務めた当時の京都・伏見工高が全国高校大会で初優勝を飾るまでの実話が、下敷きになっている。

ドラマの中で、「平山誠」という主将が活躍している頃、平尾本人は同志社大の主力選手で、日本代表の次代を担うスターとしてファンの期待を一身に背負っていた。

「ラグビーといえば『スクール・ウォーズ』。汗かいて、泥臭くて、男の中の男っていうイメージ。大八木(淳史)さんみたいな大きい人が、ボールを持って走っている姿を思い浮かべるスポーツでした。それが、本物の平尾さんを目にした瞬間、『格好いい』に変わりました。平尾さんはトライを決めても、ウェアが乱れないんです。グチャグチャ、ドロドロになるようなことが全然ない。スポーツニュースで平尾さんが何秒か映るだけで、『ちょっと何、この格好いい人。なんで走っているの』って。その何秒かでラグビーのイメージが変わるくらいのインパクトがありました。汗の臭いがするにしても、平尾さんなら、さわやかな香りだろうと思っていました」

実際の平尾は、華麗で洗練されたランニングとパスだけを得意とする選手ではなかった。的確なタックルを決め、体を張るプレーをいとわない面もあった。そのあたりは端正なマスクの陰に隠れ、ラグビーファン以外の目にはつきにくかった。日本代表監督時代の1997年に出演した長寿テレビ番組「徹子の部屋」では「傷、多いんですよ。顔だけで65針くらい縫ってます」と打ち明けている。「アナタ、お顔に傷のない方ねえ」と持ちかけた黒柳徹子の感覚は、平尾だけは決してウェアが乱れないと言った沢松と、近いものがあるかもしれない。

いずれにせよ――。頭を打ったくらいなら、やかんの水をかけてもらって起きあがるし、血が出たってテープをひと巻きして戦線に戻る。そんな荒っぽいイメージだったラグビー界に、貴公子然とした平尾は1980年代、新風を吹き込んだ。その辺りの空気感を、沢松は少女時代、ビビッドに感じ取っていた。

全日本選手権を制した高校1年当時の沢松(1988年12月撮影)

シンポで実質初対面、イチローやヤワラちゃん交え

兵庫・夙川学院高の1年生時代にテニスの全日本選手権を制した後、報道機関が企画した対談などで、初めて本物の平尾と顔を合わせた。ただ、その頃に話した内容をはっきり覚えてはいない。神戸製鋼を日本一に導いたラグビー界の若きスターを前に、きっと緊張していたのだろう。

実質的な初対面は1995年11月、阪神大震災の被災児童を励ます目的で一流スポーツ選手が神戸市内のホールに集まったシンポジウムだ。平尾と沢松のほか、当時はオリックスで活躍していたイチロー、柔道の田村亮子(現・谷亮子)と、豪華な顔ぶれだった。

「クールで硬派なラグビー選手という平尾さんのイメージが、あの日、変わりました。お会いして話すと、気さくで、とっつきにくさなんてどこにもない。『うわ、メチャクチャしゃべりやすい人じゃない!』と、感動しました。あの当時はイチローさん(沢松より1学年下の世代)もまだ若くて、シンポジウムみたいな機会には慣れていなかったようで、割と緊張されていた感じ。そんな雰囲気の中、楽屋であいさつを交わした時から、年長者だった平尾さんがみんなを和ませてくださったんです」

この日、競技の枠を超えた平尾と沢松の絆が生まれた。沢松の引退後は、平尾の大病がわかる8か月ほど前の2015年1月まで、イベントでの共演や私的な会食などを含め、2人は毎年のように会う機会を作り、親しく語らう間柄になった。

もっと考えてラグビーをしよう

神戸製鋼の親しいチームメートたちが相手だと、平尾はグラウンド外でほとんどラグビーを語らず、笑い話に興じていたと伝えられる。それなのに、ラグビーの知識がない沢松には、会うたびに独特の切り口で、ラグビーとスポーツを熱く論じた。

「基本的に『スポーツは考えるものだ』というのが、平尾さんの考え方でした。ラグビーの場合、自分が試合中に置かれている状況をちゃんと第三者的に分析して、どこにパスするべきか、どう動くべきかを考えられる人が、最終的には勝つんだと。『日本のラグビーは、もっと考えなくちゃいけない。もっともっと頭を使わなきゃいけない』。その意見には私、ものすごく共感しました。スポーツ選手って、脳みそまで筋肉というような昔のイメージとは違って、トップレベルになればなるほど、頭が良くないとできないものだと思うんです。その考えに、平尾さんとお会いしてから、自信を持てるようになりました」

テニスについても、平尾はきわめて雄弁で、しばしば鋭い分析を披露した。マシンガン・トークで鳴らす沢松が、主に聞き役に回った。

「そういう目線なのって首をかしげるような話もあれば、すごく的を射ていることもあるんです。『この選手、この前の試合では、コートのあっち側にボール集めて、負けたやろ。そしたら、次やる時までにはデータを取って、どの方向にどんな配分でボールを散らしたらいいのか、絶対に考えるべきやと俺は思う。そこに気がつかない選手はアカンねん』。そんな話をされたことがありました。面白いなぁと思いましたね」

鋭い観察「ナオちゃんは頭使ってる」

1992年6月、ウィンブルドン選手権でジェニファー・カプリアティと熱戦を演じる沢松奈生子

沢松のプレーも、きっちりリサーチされていた。現役時代、ひそかに心がけていたことを鮮やかに見抜かれ、舌を巻いたことがある。

テニスの試合では、開始前に5分間のウォーミングアップがあり、両選手が軽く打ち合う。この時間を、沢松は大切にした。自分の体をほぐし、その日のコート状態やボールの弾みを確かめるだけではない。感覚を研ぎ澄ませ、力を抜いたラリーの中にもかすかに表れる対戦相手の調子を把握することに努めた。このささやかな工夫で、体格がよくてパワフルな海外トップ選手たちとの勝負に、沢松はしばしば活路を見いだしてきた。

「試合前に相手のデータは、もちろん全て頭に入れています。どんなショットに特徴があるとか、サーブはどのコースに打つ割合が高いとか。けれども、相手選手も生き物だから、その日の調子までは、コートで顔を合わせてみないと分からない。『きょうはこのコースが調子いいな、ここは悪いな』という感触を、私はウォーミングアップでつかんでいました。そこに気づけるテニス関係者って、そうそういないものなんですよね。ところが、違う競技の平尾さんが、しっかり気づいていました。『ナオちゃんは、相手の特徴を試合の序盤につかんでいる。ちゃんと考えているやろ、あの5分で』って言われたんです」

「テニスのことで、他の人から『ナオちゃんはちゃんと頭使っている』なんて上から目線で言われたら、私は怒ると思います。夫に言われても、モノを投げつけちゃうかも。でも平尾さんだと、むしろ『えー、ホントですかぁ』って純粋にうれしくなってしまう……」

ルールをよく知らないラグビーの話を延々とされても、誰よりも考え抜いてきたテニスを上から目線で語られても、沢松はいつも平尾の話を喜んで聴いた。

「ついていけない世界のことばかり、延々と語ってしまう男性っていますよね。平尾さんだけは、それが許されるんです。だって、平尾さんだから。女性から見てもずるいなって思うくらい、立っているだけでも格好いいんですもん。ただ格好いいだけだとつまらないけど、クールさと熱さを併せ持っていて、人間的に厚みがある。だから、話のテーマよりも、平尾さんに興味があって話を聴き続けてしまうんです」

そもそも、初めての会食で「刺激的すぎるバー」に案内するようないたずらをやらかす男性は大抵、女性から愛想を尽かされるだろうし、トラブルになっても不思議はない。平尾という男性はやはり、特権的なスターだったということだろう。

共通する「生かされている」意識

国連防災世界会議プレ・シンポジウムのパネル討論で発言する平尾(2004年8月撮影)

阪神大震災を抜きに、兵庫ゆかりのアスリートである平尾と沢松の結びつきは語れない。

発生した1995年1月17日は、平尾にとって、神戸製鋼で日本選手権7連覇を達成した2日後だった。当時のチームメートによると、平尾は被災した朝、妻子と自宅にいた。家族の無事と家の状態を確認すると、親戚の無事を確かめに出かけ、がれきを動かして人を救出した。

沢松は震災の日、全豪オープン出場のため、オーストラリアのメルボルンにいた。生まれ育った西宮市の実家は全壊し、1階にあった自身の寝室もぺしゃんこになったが、家族は奇跡的に全員無事だった。

「全豪オープンがあの時になかったら、私は死んでいました。本当に拾った命だと思っています」

沢松はこの全豪で快進撃を演じ、被災地を勇気づけるヒロインになった。実家を案じて電話口で「帰国したい」と訴えた沢松を、往年の名選手でもある叔母の和子(ウィンブルドン選手権女子ダブルス優勝者)が「プロなら試合をしなさい。嫌なら泳いで帰ってきなさい」と一喝したエピソードは、テニス界の語りぐさだ。腹を決めてプレーを続けた沢松は、杉山愛、伊達公子、メアリージョー・フェルナンデス(米国)と手ごわいライバルを次々と撃破。準々決勝でアランチャ・サンチェス(スペイン)に惜敗したが、四大大会で自身の最高成績となるベスト8に食い込んだ。

「神戸の方々の力を感じながらプレーしました。最悪の体調でしたよ。寝ていないし、食べていない。自分の家族や、神戸にいるみなさんが食べるものもないっていう時、自分だけぜいたくな食事なんて当然できませんから。練習もできていない。それでも、コートに立ったら無の境地で、ボールしか見えない。パーンって、いいコースに打たれて、『あぁ、もう絶対にとれない』と思った時に、ふと神戸の人たちの声が聞こえてくるんです。『取れるよ!』。体が勝手に押される感じで、ラケットを出したら、それが決まっていました。ちょっと自分が怖いと思いました。あの声がなかったら、たぶん私の足は止まっていました」

雑念が消え、極限まで集中が高まり、最高のプレーができる状態を、近年は「ゾーンに入る」と表現する。沢松にとって、自身がゾーンに入ったと感じた経験は、人生で2回だけ。1回目が全豪での各試合で、2回目はモニカ・セレシュ(米国)と大熱戦を演じた引退試合だ。

「全豪オープンは、私にとって、ある意味で原点です。スポーツ選手として、ただ強くなればいい、勝てばいいっていうのではなく、自分たちがなんで今、スポーツをやらせてもらえているのか、できるのかを考えるきっかけになりましたから。人として、毎日を大事にして、いつ何があっても後悔しないように、自分に何ができるかを考えて生きたいと思うようにもなりました」

一方、沿岸部にある神戸製鋼のラグビー練習場・灘浜グラウンドは、液状化などで使えなくなり、一時はグラウンド脇ががれき置き場になった。しばらくして、あちこちの高校のグラウンドを借りて練習を再開したチームを、平尾は「震災を言い訳にするな」と鼓舞した。そのシーズン、神戸製鋼の連覇は途絶えた。チームが日本一に返り咲いたのは、2000年。平尾はすでに引退し、ゼネラルマネジャー(GM)を務めていた。

「震災の後、『自分は生かされていると思うようになった』と、平尾さんがシンポジウムで話していたのを覚えています。被災した日の行動についても、うかがいました。スポーツのトップ選手って、毎日毎日が精いっぱいだから、自分の人生がどうとか、生きているのはあと何年だからどう生きようとか、特に考える機会がない人もいると思います。平尾さんは震災の時に『命っていうものは、いつなんどき、何があるかわからない。そうであれば、生きている間は、生かされている命を一生懸命生きよう』と思ったそうです」

震災を経て、2人は「命」に対してよく似た意識を抱くようになった。

引退試合を戦い終え、相手のセレシュに抱かれて泣く沢松(1998年9月)

被災地にたつ選手目線のW杯会場

間もなく始まるラグビーW杯の試合会場となる神戸市御崎公園球技場は、阪神大震災から復興する神戸を世界にアピールするシンボルとして、2002年のサッカーW杯日韓大会に合わせて建設された。神戸製鋼と大林組のジョイント・ベンチャーが設計、建設に携わった。

設計段階で、平尾は様々なアイデアを出した。ひとつは、グラウンドとスタンド最前列の段差をできるだけ低くしようという助言だ。選手が観客と握手をしたり、サインをしたりする試合後の交流を、容易にすることが目的だった。サッカーW杯の基準では、厳密なフーリガン対策が求められたために段差が2.5メートル必要とされていたが、神戸のスタジアムの段差は1.8メートルにとどめた。サッカーW杯の間だけ、仮設で0.7メートルかさ上げして対応した。

サッカーW杯の開幕前、沢松は完成直後のスタジアムを訪れた。平尾、そしてサッカーの三浦知良(当時はJリーグのヴィッセル神戸所属)との対談企画だった。めっぽう格好いいスポーツマン2人と一緒にグラウンドに立つという機会を楽しむとともに、被災地・神戸に誕生したフットボールの聖地の姿に深い感銘を受けた。

「アスリートは、観客席から見る景色ではなくて、ピッチから観客席を見ています。なので、実際にフィールドに立って初めて、そのスタジアムの良しあしを感じるんです。選手目線で見た時に『すごく開けている』とか『窮屈な感じがする』とかを感じて、そこから競技しやすい、しにくいっていうのを判断します。神戸はすごく開けていました。芝も、ウィンブルドンを超えたかもと思うくらい、美しくて。ここはプレーしやすいだろうなって、思ったことを覚えています」

「平尾さん、思い入れをすごく熱く語っていました。『俺が建てた』くらいの勢いでした。世界中のいろんなスタジアムを見に行って参考にしたという話でした。『ナオちゃん、ウィンブルドンと全米オープンの会場って違うやろ?』って、聞かれましたね。『国によってお客さんのカラーも違うから、全然違うスタジアムになるんや。神戸には神戸のスタジアムを造りたかった』って」

平尾も携わった神戸のスタジアムでは、ラグビーW杯で、4試合が行われることになっている。

「2015年1月のイベントでお会いした時も、W杯の話を一生懸命されていました。『ナオちゃん、見に来てや。日本でW杯をやるって、ホンマにすごいことやで』。それが最後になるとは、夢にも思っていなかったので、『ハイ、ハイ』っていう調子で聞いていたのが、悔やまれます」

都内に暮らす今も、兵庫に里帰りするたび、沢松は平尾を思い出す。

「変わってきた町並みを見ると、神戸の人たちが頑張って復興してきたんだと感じ、誇りに思います。自分たちが、何か小さくても力になれていたとしたら、スポーツ選手として一番良かったことだと思うんです。平尾さんが神戸製鋼に入って、神戸にいる時に大きな震災が起きた。そして今回、W杯が神戸に来る。なんだか、全てがつながっているような気がします」

今年1月、沢松は会合の席で、黄金に輝く本物のワールドカップを目の当たりにした。その場面を脳裏によみがえらせた時、沢松の目に涙があふれた。

「カップと一緒に写真を撮らせてもらいました。『あぁ、平尾さんがここにいたら、喜ぶんやろうな』と思いながら。そうやって、ところどころで思い出しちゃうんです。あぁ、またお会いしたい……。平尾さんと知り合っていなかったら、私がW杯に興味を持つことはなかったでしょう。だから、代わりにはならないけれども、平尾さんの分までW杯をしっかり見届けたいと思います」

平尾との思い出をよみがえらせ、インタビュー中に涙ぐむ沢松

平尾カメレオンと内助の功

ラグビー、テニス、震災……。様々な話を聴いてきた沢松は、平尾のことを「カメレオンみたい」とも表現する。

「ものすごく真面目だったのか、それとも天才的なアスリートだったのか、すごく努力をしてあそこまで積み上げた人なのか。すべての可能性を、考え得るんですよ。それがつかめない。いろいろ想像できる。どれだけお会いしても、結局答えが出なかった。そのまま逝ってしまったんです」

「格好いいだけじゃないってことですよ。トータルして、彼の魅力なんだと思います。おそらく出てこないでしょうね、こんな人は。全アスリートを通して考えても、ほかに出会ったことがない。イチローさんだって、(松岡)修造さんだって、自分の色がありますけど、どれが平尾さんの色なのか分からないようなカメレオン人間はいない。一体どれが本当の平尾誠二なのか、最後までつかめませんでした」

そして、平尾がカメレオンでいられたのは、内助の功が一因だと、沢松は考えている。

「亡くなったと聞いて、突然お宅へ伺うのも迷惑になるかもしれないので、お花を送りました。そうしたら、奥様から直筆のお手紙をいただいたんです。亡くなって間がなかったので、本当にお忙しかったでしょうし、たくさんの方が弔問に来られた中で、手紙を書く時間を割いてくださったことに感動しました。『仲良くしてもらって、ありがとうございました。家で沢松さんの話をしていました』と、書いてくださいました。平尾さんが選んだ方ってどういう女性なんだろうって、すごく興味があったんです。奥様には、まだお会いしたことがありません。でも、平尾さんが立派な社会人、立派なアスリートでいられたのは、奥様あってのことだったんだなと、あのお手紙で腑に落ちました」

沢松 奈生子(さわまつ・なおこ)

1973年3月23日生まれ。テニス一家に生まれ、5~10歳をドイツで過ごす。兵庫・夙川学院高1年だった1988年、全日本テニス選手権女子シングルスに初出場し、優勝。神戸松蔭女子大入学と同時にプロ転向した。シングルスの世界ランキングで自己最高は14位。四大大会の最高成績は、全豪ベスト8、ウィンブルドン、全仏4回戦進出、全米3回戦進出。ツアー通算シングル4勝。92年バルセロナ、96年アトランタ五輪代表。98年に引退した。2000年に平尾が設立してNPO法人の理事長に就いた総合型地域スポーツクラブ「スポーツ・コミュニティ・アンド・インテリジェンス機構」(SCIX)には、発起人として協力した。現在は、テニス解説者、コメンテーターとして活躍している。

叔母の和子は1975年ウィンブルドン選手権女子ダブルスで優勝。母の順子は、和子との姉妹ペアで70年にベスト8入りした。父の忠幸もウィンブルドンに出場したテニス選手だった。

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