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ラグビーのプレイだけじゃない!人としても素晴らしかった平尾誠二

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ラグビーのプレイだけじゃない!人としても素晴らしかった平尾誠二

ミスターラグビーこと故平尾誠二さんの過去の映像を観ていると素晴らしい発言が多い事に気づかされます。平尾さんが背中を追いかけたと言っていいでしょう!ラグビー日本代表の先輩である松尾 雄治さんとの対談で、平尾さんが同志社大学のキャプテン当時の気持ちを語っています。当時、高校時代にキャプテンを務めてきた選手が多い中で「媚びない」「切れない」「意地をはらない」をモットーにキャプテンを務めていたという。こんな大学生がいますか?ラグビーのプレイだけじゃなく人格者でもあったといえるでしょう!

そんな平尾誠二さんの命日が20日南アフリカと準々決勝です。平尾イズムを胸に選手達には頑張って欲しいですね。

洋魂和才、ジャパンに息づく平尾イズム

平尾誠二は1997年2月、史上最年少の34歳で日本代表監督に就任した。2か月ほど前、現役最後の試合に出場したばかりだった。正式に引退を表明したのは98年1月のことで、その11か月前からジャパンの指揮官を務めていたわけだ。

日本のラグビー人気は当時、低迷期に入っていた。きっかけは、1995年のワールドカップ(W杯)でニュージーランド代表に喫した17-145という記録的大敗だ。さらに、強豪国が軒並みプロ選手を認めていく中で、アマチュアリズムに固執した日本の強化は、大きく立ち遅れていた。危機的状況にあって、日本ラグビー協会が引っ張り出したのが、高校、大学、社会人を通じて日本の頂点を極め続ける選手生活を送ってきた平尾だ。99年W杯と、さらにその先をも見据えた「切り札」の登場とされた。

汚いぞ――と言いつつ、監督とコーチの間柄に

難役を引き受けるにあたり、平尾は日本協会に条件をつけた。同志社大時代の同期生で、社会人ラグビーでは好敵手だった土田雅人を、コーチに迎えることだった。2人は大阪で会い、一対一で話し合った。

「平尾は『土田をヘッドコーチかフォワードコーチにしたい。これを代表監督のオファーを受ける条件として、日本協会と話をしている。だから、お前が受けないと、俺は監督をやらない』と。そういう汚いこと言ってきたわけですよ、アイツ」

土田はすでに、サントリーの監督を2シーズン務め、チームを日本選手権初優勝にも導いていた。ただ、熱心で前途有望なビジネスマンでもあり、「これからは仕事をしたいから、もう監督を辞めさせてくれ」とサントリー本社に申し入れ、ラグビーを離れることになったばかり。いかに平尾の求めでも、簡単には首を縦に振れない立場にあった。

「平尾に言ってやりました。『分かった。お前がここで土下座したら、俺はやるよ』ってね。そうしたら、土下座はしませんでしたけど、『頼む』と頭を下げたんです。それで、受けました。まあ、彼もプレーヤーからコーチの経験もなく、いきなり監督ですからね。さすがにちょっとかわいそうだな、という気持ちもありました」

こうして、土田は日本代表のフォワードコーチに就いた。平尾からは、ムードメーカーとしても期待されていたという。

「僕は平尾からずっと『お前には俺の持っていないものがある』と言われ続けてきたんです。『きつい練習をさせられても、試合できつい場面になっても、いつもお前は明るいし、周りをそういう雰囲気にする。それは俺にはできない』と。そんなことを言っておいて、一番きついことを僕にやらせるんです。試合中、僕はウォーターボーイ(選手たちへの水運び)をやりながら、平尾の指示を選手に伝えていました。サントリーでは監督だったのに、ジャパンではウォーターボーイ……。試合前のウォーミングアップも、初めの頃はスーツを着て見ていたけれども、途中からはトレーニングウェアを着て、一緒に動いて選手を盛り上げていました。まあ、そういう役回りなんでしょうね」

日本代表の練習後、ピッチ脇で談笑する平尾誠二監督(左)と土田雅人コーチ(中央)ら=1998年10月、シンガポールで

ジョセフにバショップ 「チェリーブラックス」?

日本代表を作り上げるにあたって、平尾は印象的な造語を掲げた。

「和魂洋才という言葉がありますよね。平尾は『洋魂和才』だと言ったんです。『日本代表に今、魂はない。でも、外国人はそれを持っている』と」

日本のラグビー界には長らく、日の丸を背負って国際試合を戦うよりも、むしろ所属チームでの国内リーグ戦などで活躍することを重視する風潮があった。無理もない側面もあった。代表のステータスが低いのに、テストマッチで負ければメディアにたたかれる。選ばれても割に合わない代表チームになっていた。

そんな状況下、平尾監督は、ニュージーランド出身のアンドリュー・マコーミックに主将を任せた。ニュージーランド代表「オールブラックス」の元メンバーだったジェイミー・ジョセフ(現・日本代表ヘッドコーチ=HC、監督に相当)やグレアム・バショップに桜のジャージーを着せた。「チェリーブラックス」と揶揄(やゆ)されても、指揮官はぶれずに外国人の精鋭を選んだ。土田は、こう語る。

「本当にラグビーが好きで、ラグビーのために体を張って、代表のジャージーに恥じない、逃げないプレーをする選手。それは当時、日本人よりも外国人だった。彼らの持つ魂を、桜のジャージーに注入してもらって、そこに日本らしいラグビー、日本らしい文化を入れていこう。それが、僕らの狙いだった。マコーミックをキャプテンにした時は『どうして外国人なんだ』と、マスコミから批判された。けれども、マコーミックだったり、ジョセフだったりの力が、チームにはやはり必要だったんです」

ちなみに、その国の国籍がなくても代表選手になれるのは、ラグビーというスポーツの特色でもある。その国で①自身が生まれた②両親と祖父母のうち1人が生まれた③3年(2020年末以降は5年)以上にわたって継続的に居住している――という3条件のいずれかを満たせば、代表資格を得られる。ラグビー発祥国であるイギリスには昔から海外移住者が多く、英国人に移住先の国で代表に選ばれる道を開こうと、こうした制度が生まれたとされる。日本代表のW杯出場チームをみても、外国出身者は1987年の第1回大会から常に加わっていた。南アフリカから大金星を挙げた2015年の前回W杯に出場したチームも、登録メンバー31人のうち10人を外国出身者が占めた。今年のW杯日本大会でも、名前がカタカナの選手が何人もピッチを駆けるのは確実だ。数多く選び始めたのは平尾ジャパンだが、その方針にルール違反や道義的な問題は全くない。

マコーミック主将と平尾監督が並んだ記者会見(1998年10月)

ホワイトボードに示したチーム像

そんなメンバーを、平尾と土田は、どう導いたのか。相手チームの戦術や技量をビデオ映像で綿密に分析して試合に臨む側面が、当時はよく脚光を浴びた。だが、さらに大切な信念があったと、土田は考えている。

「相手がどういう戦い方をしてこようが、日本代表はこういうラグビーをするんだというイメージを、平尾は持っていた。ミーティングでは、イメージに合ったトライなどの映像を流し、得点の取り方や戦略を示した。そして、ホワイトボード上に、キーワードやイメージ図を書いてみせた。的確で、外国人選手にも分かりやすい説明だった。目指すチーム像を、はっきりと徹底的に伝えたうえで、選手をグラウンドに送り込んだ」

チームは1999年の初夏、「エプソンカップ・パシフィックリム」という国際大会で初優勝を飾る。サモア、トンガ、カナダ、米国を次々と破った。戦術の基盤としていたのが「リズムとテンポ」だ。フォワードが連続してラックを作り、そこから素早くボールを出す。バックスが多彩なパスで防御を突破し、トライにつなげる。その年の秋にW杯を控え、平尾が進めてきた強化策が一つの結果を出した。ところが――。

パシフィックリムの日本代表戦を観客席から見守る平尾監督(中央)。左端は土田コーチ=1997年5月、大阪・花園ラグビー場で

W杯の壁、テストマッチの自信砕ける

その年の10月、イギリスのウェールズを主会場とするW杯を迎えた。ファンや関係者の期待を一身に背負って乗り込んだ大勝負で、平尾ジャパンは、世界の壁にぶち当たった。

3日、サモアとの初戦。前半、フルバックの松田努(東芝府中)が左肩にけがをして退場したところから、チームの生命線であるリズムが狂った。激しい雨と風の中、日本のパス回しはスピードに乗れず、ミスから逆襲を浴びる。試合を通じて、日本は一つもトライを奪えず、相手には5トライを許した。9-43。5か月前のパシフィックリムで破ったサモアに、完敗を喫した。

「初戦が大事だった。残念ながら、日本は(先発の)15人までは良かったけれども、交代選手の層が薄かった。W杯では、登録メンバー30人の誰が出ても変わらないチームが勝つ。それを痛感した」

続くウェールズ戦は、エースの大畑大介(神戸製鋼)がタッチライン際を走って2人を振り切る美しいトライを決めるなど、見せ場もあった。だが、地元の強豪との実力差は大きく、結局9トライを許して敗れた。最後の試合もノートライでアルゼンチンに屈し、平尾監督と土田コーチのW杯は3戦全敗に終わった。

「パシフィックリムの時点で、チーム作りは(100点満点で)80点くらいまで進んだと思ったし、W杯への手応えも感じていた。けれども、テストマッチとW杯は違った。まだW杯を戦う力はなかった。サモアなんかは、パシフィックリムでやった時の選手たちとは違う、一つレベルが上のメンバーが出てきた。世界ではプロ化も始まっていて、日本とは力の差があった。相手が強かった」

W杯サモア戦、タックルを受ける日本の松田(1999年10月)

W杯ウェールズ戦で快走する日本の大畑。一矢を報いたトライは当時、現地でも注目された(1999年10月)

百年の計、道半ばの辞任

悔しいW杯を最後に、土田は日本代表コーチを退いた。そこで任務に区切りをつけると以前から決め、日本ラグビー協会や周囲に意思を伝えてあった。ただ、平尾には監督続投を勧めた。平尾自身も敗退直後に「3試合を通して課題が明確になり、ようやくスタート台に立ったところ。ここから始まるのかなという感じがする」と前向きな言葉を発していた。

「監督を引き受けた時に、平尾は『百年の計でやります』と言っていた。だから、僕は『それを守って、ぜひ監督を続けろよ』という話だけしました」

日本協会からも続投要請があり、平尾は引き続き代表を指揮した。だが、チームはその後も不振にあえぐ。W杯1年後の2000年秋、平尾ジャパンはアイルランドに遠征した。03年のW杯を見据えてチームの若返りを図ろうとした遠征だったが、テストマッチで9-78と大敗するなど、0勝3敗に終わってしまう。帰国後、平尾は監督辞任を表明した。

けがなどで代表を辞退する選手が相次ぎ、思うようなメンバー編成で臨めなかった遠征で負けが込んだのを機に身を引くのは、不本意でもあったはず。しかし、平尾は「世界は大きくて速くなっている。日本が突く『すき間』がなくなっている」と、悔しさを押し殺して淡々と語った。土田は惜しむ。

「平尾監督で、次のW杯も戦ってほしかった。W杯のプレッシャーと闘い、W杯で勝つラグビーには、経験が必要。2015年W杯で日本のHCだったエディー・ジョーンズ(現・イングランド代表HC)なんか、19年のW杯が指導者として4度目になりますからね」

トップリーグの種まき

日本選手権で神戸製鋼を下し、連覇を果たしたサントリーの土田監督(中央)=2002年2月、東京・秩父宮ラグビー場で

戦績こそ、ふるわなかった平尾ジャパン。しかし、日本ラグビーに多くの貴重な財産や教訓を残し、国内の社会人ラグビーの環境を大きく進化させる種もまいた。

「トップリーグ構想を作ったのは平尾です。実力の伯仲したチーム同士がぶつかる厳しい試合の数が足りないうちは、世界で勝てないからです。私も日本代表コーチに就任した時、選手の力の差が所属チームによってあまりに大きいことに驚いた。仕方なく、代表の練習を体力作りから始めた。でも、それは(本来なら所属チームでやるべきことで)スタート地点が違う。当時の社会人ラグビーは、東日本や関西のリーグ戦のあと、全国大会があるだけ。きつくて質の高い練習を日頃からしていたチームも、サントリーとか東芝府中とか神戸製鋼くらいで、下位チームはそうではなかった。平尾と僕は『トップ級のチームが毎年最低10試合か12試合する。これをやらないと強くならない』と日本協会に掛け合ったんです」

日本協会は、2002年に日本代表選手とのプロ契約を始め、翌2003年にトップリーグを開設した。強化策の結果がすぐさま表れるほどW杯は甘くなかったが、15年大会で南アフリカなどから3勝を挙げ、ようやく日本は世界レベルに近づいてきた。

一方、土田は代表コーチを離れた後の2000年、サントリーの監督に復帰。前シーズンの全国社会人大会で神戸製鋼に17-73と大敗するほど低迷していたチームを、就任1年目で日本選手権優勝に導くと、翌シーズンも連覇を飾った。代表で接した平尾の指導を自分なりに消化し、3シーズンの指揮に生かしていたという。

「以前サントリーを率いた時のような、相手を研究して試合ごとに戦い方を変えるチームを、僕は二度と作らないと誓った。平尾から教えられた通り、目指すチーム像を決めて、分かりやすく選手に伝えた。ただ、サントリーは若いチームだったから、ラグビーの型を決めた。攻撃のサインプレーは、1次攻撃から4次、5次くらいまで決めていた。平尾ジャパンは確か1次、2次までだった。『相手防御を崩した後は、自分たちで自由に、トライのとり方を考えればいい』というスタンスの平尾だったら、先の先まで細かく決める点については、ちょっと嫌がるかもしれないなと思いながらやっていましたけどね」

現代表の指揮官も「2人で選んだ」

試合後の記者会見でマイクを握る日本代表のジェイミー・ジョセフHCとリーチ・マイケル主将(2018年10月、大阪・花園ラグビー場で)

2019年1月、神戸市内に平尾の墓が建った。墓参りと、平尾の長男・昂大(こうた)さんと一杯酌み交わすため、土田は3月に関西を訪れた。その足で、同志社大時代の練習場だった岩倉グラウンド(京都市左京区)に33年ぶりで足を踏み入れ、平尾との思い出を振り返った。

代表監督を離れた後の平尾は、神戸製鋼のゼネラルマネジャー(GM)を長く続け、ラグビーW杯日本大会の組織委員会理事にも名を連ねた。2015年6月、日本ラグビー協会の理事に就任。すでにサントリーで系列会社の社長になっていた土田を、またしても誘ってきた。

「アイツが『俺は日本協会の理事をやる。お前もやれ』と声をかけてきた。『いや、俺は仕事で忙しい。無理だ』と言ったんだけど、結局やることになった」

そろって理事に就いてから、わずか3か月後、平尾の大病が判明した。W杯イングランド大会の開幕直前のことで、この大会で日本が挙げた3勝を、平尾は現地で見られなかった。それでも、毎月開かれる日本協会の理事会には、しばらく出席を続けた。

「理事会で会うたびに、彼、どんどんやせていくんです。16年の3月頃に『家族と旅に出るわ』と言って、しばらく音信不通になりました。そこからは、いろんなリハビリがありました。僕も彼の部屋へ行ったり、一緒に鹿児島へ治療に行ったりしました」

協会理事として、平尾が携わった最後の大仕事が、日本代表指揮官の人選だった。エディー・ジョーンズ前HCが、W杯イングランド大会後は続投しないと大会前に表明したため、後任選びが早い時期から本格化したのだ。土田は、こう言い切る。

「ジェイミー・ジョセフをHCに決めたのは、僕と平尾です。平尾と僕と、あと何人かを入れて、次の指揮官を話し合った。『日本のことをよく理解している』というのを必須条件として、僕らはリストアップしていった。やはりトニー・ブラウン(元パナソニック)は、コーチとして必要だという意見で一致した。そして、ジョセフは僕たちが率いた日本代表でも、サニックス(福岡県宗像市)でもプレーした。指導者として2人は、ハイランダーズ(ニュージーランド)をともに率いて、スーパーラグビー(南半球などの強豪クラブがそろうリーグ戦)で優勝している。いろんなことを考えて決めました」

日本代表は今、9月に開幕する地元開催のW杯で初の決勝トーナメント進出を目標としている。キックで相手の陣形を崩し、鋭い出足でボールを奪い、素早く展開する攻めを磨いている。昨年6月にはイタリアに快勝し、11月には敵地でのイングランド戦で前半をリードする健闘を見せ、ファンの期待は高まっている。

自身が人選に携わったジョセフHCが指揮し、ニュージーランド出身で日本国籍を取得したリーチ・マイケル(東芝)がキャプテンを務める。まさに洋魂和才を体現するチームの状況を、平尾は気にかけ続けていたという。

「平尾に会うと必ず『ジョセフやブラウンはどうや?』『あの選手はどうなっている?』という話になった。あんな病気をしているのに、神鋼だけじゃなくて日本のラグビーを、最後まですごく気にしていた」

もう一度、ジャパンの監督にしたかった…

ラグビーファンが根強く抱いていた希望を実現できなかったことが、土田は残念でならない。

「もう一度、平尾に代表監督をやってほしかった。コーチングを知っているし、日本サッカー協会でも理事をやったりして、いろんなマネジメントも知っている。ラグビー協会では、平尾がトップリーグ担当理事で、僕は日本代表の強化担当理事だった。だから最後に、言ってやったんです。『お前を代表監督にできるのは、俺だけだ。権限を発動するぞ』って。できなかったですけどね」

もしも土田が権限を使っていたら、平尾はきっと「お前がコーチを引き受けるなら、俺はやる」と返したに違いない。(文中敬称略。読売新聞オンライン・橋野薫、込山駿)

土田 雅人(つちだ・まさと)

学生時代の平尾(左)と土田=土田雅人さん提供

1962年10月21日、秋田市生まれ。秋田工でラグビーを始め、3年で高校日本代表に選出される。同志社大に進み、2~4年で大学選手権3連覇を達成。85年、サントリーに入社し、89年度は主将として全国社会人大会準優勝。95年度は監督就任1年目で、日本選手権初優勝に導く。日本代表フォワードコーチを経て2000年、サントリー監督に復帰、日本選手権2連覇を果たした。03年にサントリー監督を退き、その後はゼネラルマネジャー、強化本部長としてチーム強化にあたった。15年、日本ラグビー協会理事に就任。現役時代のポジションはナンバー8。日本代表キャップ1。本業では、サントリーフーズ社長、サントリービバレッジソリューション社長を経て4月からサントリー酒類常務執行役員。

平成きっての勝負師「与えれば与えられる」絆

将棋・羽生善治九段(48)

1995年2月、東京の代々木公園で語り合う平尾誠二(左)と羽生善治=平尾誠二著「生きつづける言葉」(PHP研究所)より、岡村啓嗣撮影

芝の上で楕円球を踊らせるラガーマンと、盤上で駒を操る棋士。平尾誠二と羽生善治は、それぞれの分野を代表する勝負師として、平成時代(1989年1月~2019年4月)に名を刻む。2人はかつて、戦いの場の違いを超えて交流し、刺激を与え合っていた。出会いは1991年4月、平尾が28歳、羽生は弱冠20歳だった。

「平尾さんの存在はもちろん、前から知っていました。直接お会いしてみると、イメージ通りダンディーというか、スマートな方だなと。ラグビー選手としてだけでなく、人としての総合的な魅力や強さを持っておられた。ユーモアもあり、関西人らしくオチをつけた楽しい話で、笑わせてくれました」

2人が10代だった頃から撮り続ける写真家の岡村啓嗣に引き合わされた夜は、東京・青山通り沿いのスペイン料理店でテーブルを囲んだ。2軒目のパブは、3人で貸し切り状態となり、平尾は「大阪で生まれた女」を、羽生は「マスカレード」をカラオケで熱唱した。

8歳下の羽生は、すっかり打ち解け、平尾にこんな意見を述べた。

「与えれば、与えられるんです――。そんな話をしたことは、覚えています」

手の内を隠さず、前へ進んだ方がいい

平尾は当時、ラグビー日本代表の中心選手だった。国内で圧倒的に強かった神戸製鋼で培った勝つノウハウや戦術を、よそのチームからも多数の選手が集まっている日本代表に、一切隠さず注ぎ込んでもいいものか。ジャパンの勝利よりも所属する社会人チームの成績を重視する気風が、ラグビー界に支配的だった時代らしい迷いだった。それを平尾は、羽生に打ち明けた。

ノウハウを出し惜しまないことを勧めた羽生の言葉は、将棋界での実体験に裏打ちされたものだった。

羽生はその頃、佐藤康光や森内俊之といった同世代の新鋭とともに、「島研」に参加していた。少し上の世代に属する初代竜王・島朗(あきら)の周りに集う研究会だ。ライバル同士が会をつくって腕を磨くのは、当時の将棋界では異例で、「手の内を明かしたら対戦時に不利になるのでは」と疑問を投げかけられてもいた。それでも、新しい戦術を探求する島研メンバーの姿勢はぶれず、後のスター棋士たちが続々と巣立った。

「将棋の世界は、戦術がどんどん刷新、更新されていく。経験則として、自分が見つけた『いい手』も、実は発表のタイミングに恵まれただけで、すでにほかの誰かが見つけているということが多い。手の内をクローズにしても、どうせすぐに誰かが知ったり、発見したりすることになる。思考の堂々巡りにも陥りがち。それならば、手の内をすべて公開して(将棋界全体で)前に進んだ方がいいじゃないかと。まあ、ラグビーは団体競技ですから、チーム事情などで、どうしても話せないところはたくさんあるでしょう。将棋とは世界の違いがあるのかな、と感じました」

将棋流の考え方を、平尾はどう受け止めたのか。実際に代表チームに神戸製鋼のノウハウを注いだのか。今となっては分からない。ただ、その約半年後の1991年10月、日本代表は第2回ワールドカップ(W杯)でジンバブエを52―8で下した。平尾がキャプテンを務めたチームが、日本ラグビーにW杯初勝利という貴重な結果を残した。

日本一の夜、ラグビー版「ひとり感想戦」

1991年1月、日本選手権3連覇を達成してインタビューに答える神戸製鋼の平尾。右は大八木淳史

平尾がチームリーダーとして統率した神戸製鋼の日本選手権7連覇は、1989~95年のことだ。毎年1月15日に行われていた日本選手権後の夜、平尾は個人的に親しい人たちを招いて、祝勝会を催していた。

羽生は92年以降、その席の常連だった。会場は、東京・西新宿の京王プラザホテル45階にあった夜景の美しい名門バー「ポールスター」(2016年に閉店)。大学選手権優勝チームの挑戦を退けた、その日のゲームを振り返る平尾の言葉を、玉木正之や二宮清純といったジャーナリストらと一緒に聴いた。見事な解説に、羽生は毎年、舌を巻いた。

「ラグビーって、瞬間的にいろんなことが起こるものなのに、すごく幅広い視野で見ていて、さらにそれを正確に覚えているんです。自分の動きだけでなく、相手の動き、勝負の流れ、審判の笛、その日の風向きなんかも含めて。こういうプレーが何分にあって、こうだった、グラウンド上でこんなことを考えていたなどと、試合を解説してくれたんです。将棋で言うと『感想戦』ですけど、あそこまで全部の手を見通せている存在は平尾さんしかいませんから、『ひとり感想戦』みたいでした」

ラグビーを、詳しく明快に語る秘けつは、どこにあるのか。羽生は、ちょっと拍子抜けするような説明を平尾から聞かされたのを思い出す。

「自分はすごく目がいいんだ、って。視力がいいという単純な意味に聞こえました。『目がいいから遠くが見えるし、何が起こっているのかも分かる』と。でもね、あれはただ目がいいっていうだけじゃないですよ。それにプラスして、分析力とか視野の広さ。本質的な目の良さがあるから、全部が見えるんじゃないかなと思いました」

それにしても、膨大な棋譜と手筋を頭に入れ、盤上の指し手の全てを対局後に再現・検証できるのが棋士であり、その頂点に立つのが羽生ではないか。平尾の「ひとり感想戦」に、そこまで驚いたのはなぜだろう。将棋とラグビーの性質の違いに関係があると、羽生は説く。

「将棋の盤上には、基本的に偶然性がない。お互いに全部の情報が出ている戦いで、相手が持ち駒を何枚持っているかなどもわかる。だから、たとえば5手先までを構想すると、それが必然の手順ならば、必ずそうなるわけです。でもラグビーって、ボールを5回触ったり、動かしたりした時にどうなっているか、分からないじゃないですか。偶然性と不確実性の中でのゲームコントロールという、すごく難しい職人芸が、平尾さんのやっていたこと。きめ細かく説明しようとすると、言語化するのが難しいと思うんです」

畑違いの勝負師に、羽生は一目も二目も置いていた。数え切れない対局を経験し、将棋の歴史に通じ、各界との交友関係を広げた現在の羽生から見ても、平尾は特別な才能の持ち主と思えるという。

「棋士には、平尾さんみたいなタイプは、いないです。古今東西、自分が知る限り、いない。プレーヤーも、マネジャーも、キャプテンもできる、器用でマルチな人。偶然性があって何が起こるか分からないラグビーで、いろんなことを楽しまれていました。そういう人が、将棋界に入ってくるかも、疑問ですね。将棋はすごく専門的で、何かに特化していかないと仕方がない側面のある世界ですから。ほかの世界を探しても、平尾さんのようにマルチにやって全部スキルが高い人って、なかなかいませんよ」

1994年1月の日本選手権は、神戸製鋼が33―19で明大を下した。平尾(倒れている2人の右側)は試合後、羽生らとの祝勝会を開く。トライを決めたウィリアムス(手前左)は、91年の三洋電機との名勝負でも大活躍した

大逆転劇! 羽生マジック並み

1990年代の羽生は、多忙なスケジュールの合間を縫い、東京・秩父宮ラグビー場にたびたび足を運んで、観客席から試合を見た。

「今はどっちの方が押しているという程度に、ざっくりと見る感じですね。戦術的なこと、特にモールか何かの密集の中で起きていることなんか、全く分からないですから。ただ、現場に行くと選手たちの叫び声が聞こえる。スクラムを組む時なんかも、いろいろしゃべっているじゃないですか。それを聞いているのは面白いです」

平尾の出場した神戸製鋼の試合で、今も内容をはっきり覚えているのは、出会う前の91年1月8日にテレビ観戦した三洋電機戦だ。全国社会人大会3連覇を飾った決勝。劣勢だった神戸製鋼だが、イアン・ウィリアムスが後半ロスタイムに独走して同点トライを決める。細川隆弘が勝ち越しのゴールキックを蹴り込んで、大逆転劇を完結させた。

「ウィリアムスのトライですね。最後にゴールキックを決めて、ホイッスル。将棋には結構、逆転劇が多いのですが、ラグビーでもこんなことがあるんだなと。平尾さんによると、終始押されていた中で、唯一の可能性、勝つパターンを見いだそうとしていたそうです。三洋電機が勝って当然という試合でしたけど、一縷(いちる)の望みというか、ベストを尽くしてチャンスを待つ試合運びが、素晴らしいと思いました」

相手に傾いていた流れを一変させる絶妙の一手で数々の大一番を勝ち抜き、「羽生マジック」とうたわれてきた羽生の将棋と、通じるものがある勝ち方だったのかもしれない。

大勝負の盤上、傍らで平尾誠二は…

1995年、東京・赤坂プリンスホテルで行われた将棋の名人戦。羽生善治(左)と森下卓の勝負を、平尾(右端)が間近で観戦した=岡村啓嗣撮影

平尾が羽生の将棋を観戦したこともあった。1995年の名人戦。赤坂プリンスホテルでの森下卓八段との対局だ。将棋盤の脇に腰を下ろした平尾は、羽生の戦いを静かに見つめた。

「長い時間、見ていたんですよね。タイトル戦って、開始直後や休憩時間明けなどに、いろんな方が観戦に来られます。でも、静かで声も出せない感じなので、23分で退席される方が多い。平尾さんは10分くらい、いました。ほかの観戦者と違うな、と思った記憶があります」

羽生が決してラグビーに詳しくないのと同じように、平尾も戦術や勝負の分岐点が分かるほどの将棋通ではない。時間をかけて、一体何を観察したのか。平尾らとの対談を収めた羽生の著書「簡単に、単純に考える」(PHP研究所、2001年初版)から、この一幕を振り返った平尾の発言を引用する。

「一対一で勝負しているときに、羽生くんが何を考えているのか、目線をどこに合わせているのかに興味がありましたね。盤をぐっとにらんで読みを進めて、次に首を傾けてまた読みを深めている。それを見て、ああ、別の角度から状況の検討をしているなと思った。意外だったのは、対局している二人が実にマイペースで、お茶を飲んだり部屋を出ていったり……。もっと火花が散るような激しい緊張感の中で戦っているのかと思っていました」

羽生は今、こう話す。

「名人戦は持ち時間が9時間ずつと、かなり長丁場の対局です。『マックスの集中を続けるのは難しいので、ある程度のテンションは保ちつつ、それが長く持続できるような感じでやっているんです』というようなことを、答えた覚えがあります。平尾さんは『将棋を詳しくは分からないけれども、なんとなくこんな感じの流れではなかったですか』みたいなことも、おっしゃいました。それがすごく正確で、的を射ているんです。状況を見る点では、ラグビーも同じ。さすがでした」

与えれば与えられるという言葉は、羽生と平尾の間柄にも、そのまま当てはまりそうだ。2人は2000年代の初めまで、たびたび酒を酌み交わし、雑誌や書籍などでの対談も重ねた。

データと感覚、そして独創性

羽生(左)が谷川を破り、七冠を達成した1996年2月の王将戦。取り囲むカメラの数がフィーバーぶりを物語る

平成時代は、将棋もラグビーも、データの活用が大いに進んだ。

公式戦の棋譜は1995年頃からデータベース化され、棋士がパソコンで検索できるようになった。羽生はパソコンを駆使した研究の先駆者で、過去のデータを自身の将棋に生かしてきた。平尾は97年に日本代表監督に就くと、「テクニカル部門」を新設し、ビデオ分析で相手の攻撃パターンを割り出した。ただ、2人は対談などのたび、データを合理的に分類・整理する分析力には限界があるとの意見で一致した。そして、難局を打開するには「直感力」や「洞察力」を養うことが不可欠だと、口をそろえた。羽生は今、こう説明する。

「データは大事ですが、全てではありません。それはあくまで過去のことで、実際にやっている対局や試合は、初めて出会う場面です。事前に考えたことよりも、その時の雰囲気、流れ、自分自身が感じ取ったものを、大切にするべき。その場に応じた瞬間的な対応の方が、データよりも比重が大きいんです。そこに対局や試合の面白さ、難しさがあり、将棋とラグビーの共通点なのかなと思いますね」

データに頼りきることなく、研ぎ澄まされた感性と瞬時の判断で局面を打開していく。その能力を磨いた先に、勝負師たちの個性が表れる。

「平尾さんは、ただ普通にラグビーをやって勝てばいいということではなく、アイデアや独創性を、すごく大切にしていた。団体競技なので、一人一人の個性をいかに生かすかという点も、よく考えていた。言葉に普遍性があって、組織やチームをまとめるうえでの発言は、色あせない。さらに、勝負の世界でやっていくうえで、自分の信念を貫くことと周りに協調することとの、微妙なさじ加減みたいなものも、バランスがいいなと思った。自分にない考え方とか発想があったので、すごく刺激を受けた」

「私には、平尾さんほど強い思いがあったわけではないけど、自分なりにいろんなことをやってみようとは思っていた。将棋には、400年の長い歴史の中で作り上げられてきた『定跡』というセオリーがある。それはそれでいいけれども、このやり方が『本筋』だというのも、ちょっと違うんじゃないか。ルール上、指せる手はいっぱいある。王道とか本筋って言われている以外のものにも、実は優れたものや、まだ発見されていないものがたくさん潜んでいるんじゃないかなと」

個性や独創的なアイデアを大切にして、将棋とラグビーを変革していく志。そこにおいて、2人は通じ合い、響き合った。

令和元年のワールドカップ

大正生まれの大山康晴・十五世名人と羽生の1991年1月の対局

羽生(左)を破った2018年2月の対局を振り返る平成生まれのホープ藤井聡太

 

平尾が率いる神戸製鋼の日本選手権7連覇は、元号が昭和から平成に変わった直後に始まった偉業だった。指導者や神戸製鋼のゼネラルマネジャー、日本協会理事といった立場でも、平尾は最後までラグビーに尽くした。一方の羽生は平成元年に初タイトルとなる竜王を獲得してから、実に99期という史上最多のタイトル数を積み上げてきた。2人が輝いた平成時代は間もなく終わり、令和元年の日本ではラグビーのW杯が開催される。

「どんどん新しい才能が出てくるのは、ラグビーも将棋も同じ。私は明治生まれから大正、昭和、平成生まれの棋士まで、ひと通り対戦しているんです。令和生まれとは、どうかな。あと十数年、かかるかな」

平尾は令和生まれとの遭遇を果たせなかった。羽生はおそらく、大ベテランとして相まみえることになる。かつて平尾と築いたような「与えれば与えられる」関係を、孫のような世代の才能との間にも育み、羽生善治という棋士像をさらに更新していくのではないか。(読売新聞オンライン・橋野薫、込山駿)

羽生 善治(はぶ・よしはる)

羽生善治(左、2019年4月)と平尾誠二(1989年1月)

1970年9月27日生まれ。小学2年から八王子将棋クラブに通い、6年で奨励会に入会。中学3年で四段。1989年、当時史上最年少の19歳で初タイトルとなる竜王を獲得。96年、王将を奪取し、史上初の七冠を達成。2017年には竜王通算7期を達成し、前人未到の永世七冠となる。18年、大山康晴十五世名人に次ぐ2人目の通算1400勝に到達。同年に将棋界では初めて国民栄誉賞を授与された。七大タイトル通算99期。18年の竜王戦で敗れ、27年ぶりで無冠になった。現在は九段を名乗る。

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