天は二物を与えた。改めてミスターラグビー故平尾誠二の凄さ!
ラグビーW杯2019日本大会ではラグビー日本代表の大活躍でにわかラグビーファンが増殖中ですが、日本のラグビーを語る上で知っておきたい方はやはり、ミスターラグビー故平尾誠二さんの凄さですね。天は二物を与えずなどといいますが、平尾誠二さんは二物を与えらてた方だったと思います。端正な顔立ちとラグビーのプレイは本当に凄い方でした。ただ、天命は短かった。あまりにも若すぎて亡くなってしまった。その平尾誠二さんの命日は10/20です。10/20はラグビー日本代表の運命の対決!南アフリカ代表との決戦です。にわかラグビーファンの方、是非、平尾誠二さん知っておいて下さい!
オオカミの目、自由な心
読売新聞2019/01/11 11:17配信記事より引用
密着撮影を30年以上続けた写真家・岡村啓嗣(65)
1982年1月2日、ラグビーの大学選手権準決勝。連覇を狙った同志社大は、明治大と国立競技場で顔を合わせた。後半途中までリードしていた同志社大だったが、退場者を出してリズムを崩し、痛恨の逆転負けを喫してしまう。
1年生ながら、同志社大のスタンドオフとして出場していた平尾誠二は、ノーサイドの瞬間、頭を抱えて悔しがった。試合を撮影していた岡村啓嗣の目は、ファインダー越しに見た平尾の表情に、くぎ付けになった。思わず、こうつぶやいた。
「まるで、オオカミの目だな」
岡村に鮮烈な印象を残した若きラガーマンは、すでにラグビー界で脚光を浴び始めていた。2年生になると日本代表に選ばれ、当時の最年少記録となる19歳4か月で初キャップを獲得。しかし、その4か月後、試合中に右ひざの骨を折る大けがを負う。このアクシデントが岡村に、再び平尾を撮る機会をもたらした。雑誌の依頼で、平尾のリハビリを3日間撮影することになったのだ。
接してみると、平尾はとても雄弁で、いろんな話を聞かせてくれた。たとえば、自分と同じスタンドオフのポジションで活躍する先輩選手たちのプレーを解説した。新日鉄釜石のスーパースター・松尾雄治を「ステップがうまいから、決して速くない足が速くみえる。タックルにはいかないけど、ディフェンスはうまい」と評した。早稲田大の人気者・本城和彦を「パスを出した後、さらに外側まで走り込んで再びボールを受けるくらいの運動量があれば、もっとすごい選手になる」と分析した。いずれも、極めて的確な指摘のように思われた。
「とても19歳とは思えない分析力や洞察力を持っていました。この男は革命児ではないかと思うほど、魅力的でした。その3日間で、スポーツに対する概念まで、私は変わってしまいました」
その撮影を機に、同志社大学ラグビー部が練習場としていた同志社高校の岩倉グラウンド(京都市左京区)へ、東京から足しげく通うようになる。
「当時の同志社大は毎週木曜日、ABマッチというのをやっていました。Bチーム(二軍)の選手は、自分のトイメン(同じポジションで向き合う相手選手)をつぶせば、Aチーム(一軍)に上がれる。だから、ものすごく激しい試合でした。Aの選手は『早稲田や明治よりもBが怖い』って言っていました。そこが(同志社大の)強さの秘密だったかな」
中華料理店で受けた申し込み「君の10年後を見たい」
ある日の練習撮影を終えた後、岡村は「夕飯をごちそうするよ」と誘って、平尾を京都・河原町にあった高級中華料理店に連れ出した。人物、ファッション、料理、紀行もの、スポーツ、商品宣伝など、幅広い分野の撮影をこなして売り出し中だった新進気鋭のカメラマンは、10歳年下の大学生に、こんな申し込みをした。
「君の10年後を見てみたい。しばらく追わせてくれないか」
腰を据えて1人の人間を撮り続けようと思い定めたのは、岡村にとって、この時が初めてだった。ちょっとプロポーズにも似た申し込みに対する、平尾の答えは――。
「返事はなかったような気がしますね。でも、ノーとは言わずに、ほほ笑んでいたような……。私としては『じゃあ、まあいいか』という感じで、彼との(深い)付き合いを始めました」
当初「10年」と言っていた密着取材は、死に至る病が発覚する直前まで30年以上も続いた。平尾を撮り始めて以降、岡村は人物写真専門の写真家となった。同じように被写体に長期間密着する手法を用いて、将棋の羽生善治やバレエの熊川哲也らを、現在も活写し続けている。
「私はいつも『10年後を見たくなるかどうか』を基準に、密着する被写体を選んできました。人物写真家としての価値観は、平尾を選んだあの時に決定づけられたような気がしています」
イギリス留学、そしてアマ規定違反
同志社大を史上初の大学選手権3連覇に導き、平尾は1985年に卒業した。ラグビーチームを持つ多くの企業から熱心に勧誘されていたにもかかわらず、選んだのはイギリス留学だった。ロンドン郊外の「リッチモンド」という名門クラブでプレーした。岡村は、平尾から当時の胸中を聞かされたことがある。
「ラグビー発祥の地で自分がどこまでできるのかを試したいのと、デザインを勉強したいから、イングランドに行ったのだと話していました。英国で思い切りやったらラグビーをやめよう、と思っていたフシもありました」
リッチモンドでは、毎週土曜日の午後に試合があった。チームの全体練習は火、木の週2回。他の日は自主練習だった。個人の課題はそれぞれ違う。筋力をつけたい者はウェートトレーニングをするし、走力が足りないと思う者は走りこむ。みんなが集まる練習はサインプレーなどのチェックに充て、わずかな時間に集中してチームとしての総合力を磨く。選手の個性を尊重し、「義務」ではなく「権利」としてラグビーに取り組む。そんな英国流に、平尾は大いに刺激された。
ところが――。1985年8月13日朝のことを、岡村はよく覚えている。
その前日、東京から大阪に向かった日本航空123便が、群馬・長野県境近くの御巣鷹山に墜落した。520人が犠牲になった航空史に残る大惨事だ。岡村は羽田空港で、各地から集まってきた遺族の撮影・取材をした。つらく切ない徹夜の仕事に、ひと区切りがついた朝、ラグビー日本代表メンバー発表の記事にも目を通しておかなくてはと、スポーツ新聞を買った。そこには、平尾が代表から外されるという記事が、大々的に掲載されていた。
留学直前にファッション誌の誌面に登場したことが「モデルとして起用されたのではないか、アマチュア規定違反の疑いがある」とされたのだった。平尾の着た服はメーカー名や価格が記されないなど、宣伝色を薄める配慮もなされていたが、当時のラグビー界は「アマチュアスポーツ最後の砦(とりで)」といわれるほど規定が厳格だった。平尾は一時、日本国内だけでなく海外でも、プレー資格を失った。
受けた汚名は、ラグビーで晴らす
いてもたってもいられなくなった岡村は、平尾を追って英国へ渡った。現地で再会した時には、プレー資格はどうにか取り戻されていた。練習から日常生活まで張りつき、試合も3戦ほど撮った。その中にはオックスフォード大が、伝統のケンブリッジ大との定期戦を前に催す「メジャースタンレーマッチ」も含まれる。名門オ大の対戦相手を務めるのは、各国の代表級で編成された世界選抜チームだ。その一員に選ばれるほど、平尾は英国で大活躍していた。
「私が撮影した最初の試合で、彼は4トライを挙げました。タックルも本当にすさまじかった。試合後、リッチモンドから地下鉄で帰るんですけど、ホームまで行くと、平尾は疲れて立っていられず、座り込んで電車を待っていました。ものすごく真剣にラグビーに取り組んでいましたね」
留学を終えて帰国後、平尾は神戸製鋼に入社した。アマ規定違反の一件を受け、多くの企業が手のひらを返したように獲得に二の足を踏む中、神戸製鋼は熱意を込めて平尾を口説いたのだった。入社後の活躍ぶりは知れわたっている。主将に就いた88年度、全国社会人大会と日本選手権で初優勝すると、そこから連覇を7まで伸ばした。
「平尾は『ラグビーで受けた汚名はラグビーで晴らす』と、考えたんじゃないかと思います。皮肉なことではあるけれども、アマ規定違反の一件が、彼をラグビーに引き戻したのではないでしょうか」
岡村を介して広がる人脈、羽生との縁も
神戸製鋼入りした後も、岡村は折に触れて平尾の撮影を続けた。平尾の著書の刊行も、出版社との橋渡し役としてサポートした。さらには、仕事で知り合った様々な分野で活躍する人たちを紹介し、平尾の人脈を広げるのに一役買った。後に平尾の親友となって闘病を支える山中伸弥・京都大学iPS細胞研究所所長との初対面の機会を、ノーベル生理学・医学賞の受賞以前に設定したのは、岡村だった。
平成を代表する将棋界のスーパースター・羽生善治と平尾の間を取り持ったのも、2人を密着撮影の対象としていた岡村だ。1991年のこと。平尾は28歳で、日本代表でも神戸製鋼でも中心選手として活躍していた。羽生は20歳で、棋王戦を制して自身2度目のタイトル獲得を果たしたばかりという時期だった。
「この2人を引き合わせたらどうなるかなと。平尾が東京に来た時、私と3人で青山のスペイン料理店で食事しました。その後、3人でカラオケスナックにも行って、お客がほかにいなかったので、貸し切り状態で歌いました」
若き日の羽生は、この席で平尾の勝負哲学に触れた。一方の平尾も、葛藤を抱えていた時期だった。当時のラグビー界には「日本代表よりも所属チームでの活動を重視する」という考え方があった。日本一に君臨し続けていた神戸製鋼のノウハウを、主将を務める日本代表に、どこまで注入するべきなのか。神戸製鋼が国内の大会で不利になるようなことがあってはならないのではないか。
「そういう話の中で(平尾より8つ年下の)羽生さんが言ったんです。『平尾さん、与えれば与えられるんです』。羽生さんの真剣な目が、私には忘れられません」
2人の勝負師は、その後も対談などを重ね、交流を深めていく。彼らには、その表情にも共通点があると岡村は思っている。
「鋭い目ですね。平尾の目を、私はオオカミみたいだと思ったわけですが、羽生さんの目には、ものすごく殺気があります。当時は『羽生にらみ』という言葉も、よく使われましたよね。それに2人とも、すごくいい笑顔をするんです」
伏せた病、嘆く友「病院で何もできなかった……」
月に1、2度ほど顔を合わせていた平尾と岡村が、最後に会ったのは2015年9月6日のことだ。しばらくして、岡村は仕事仲間から「平尾さん、ずいぶんやせていますよ。大丈夫でしょうか」という声を聞いた。
平尾本人に電話をかけてみると、元気な声で受け答えしてきた。ただ、再会の約束をしようとすると、やんわり断られてしまう。岡村は、健康状態の詳細について本人に直接問うのは控えようと考え、恵子夫人にメールを送って様子を尋ねた。しばらくすると「うちの主人は本当に運が強い人だと思います」などと記した短いメールが返ってきた。
「そのメールを見て、私は安心してしまったんです。やっぱりアイツは大丈夫だよなと。何かの病気にはかかったのかもしれないけど、もう大丈夫なんだろうと。今思うと、恵子夫人のメールは、山中先生が(治療方針などについて)いろいろと助けてくださっている、というような意味だったのかなと思うんですけど」
その後、平尾本人に「今度、飯でもどうだ?」というメールを何度か送った。だが、そのたびに「その日はダメなんです」という返信が来た。「今、京大病院に入院しているんです」と夫人から打ち明けられたのは、2016年の秋口のことだった。
岡村は京大病院へ駆けつけた。
「とりあえず行ってみようと。そして2、3時間、病院のロビーにいました。何もできないまま、ただずっと、そこにいました。もしかしたら恵子夫人や娘さんが通るかな、と思いながら、人の流れを眺めていました。私だって、自分が病気でやせ細っている姿で友人に会いたいとは、思わないかもしれない。平尾もそうなら、気持ちを尊重してあげるべきだと思ったんですね。何というか、私はすごく臆病でした」
平尾は2016年10月20日、胆管細胞がんで他界した。岡村が最後に顔を合わせたのは、大病が判明する一週間前のことだったと、後日わかった。
自由な渦の中心で
かつて砂煙が舞っていたグラウンドは、整然とした緑の人工芝に張り替えられていた。2018年12月、岡村は京都の岩倉グラウンドを33年ぶりに訪れた。比叡おろしの寒風に吹かれて同志社高校ラグビー部の練習を眺めつつ、このグラウンドで平尾の姿を追った日々に思いをはせた。
同志社大の練習が始まる前、平尾はよくチームメートと楕円球をパスしながら戯れていた。笑顔の絶えない、子どもたちがじゃれ合うようなウォーミングアップ。オオカミの目をした少年がこんな笑顔も見せるのか――と思っていると、いざ練習が始まればチーム一丸、とことん激しく鍛え抜く。そんなギャップも魅力的だった。
「当時の同志社は、体育会としては進歩的で、自由なラグビーが浸透していました。ほかのラグビー部は(練習前に)もう少し張り詰めた雰囲気があっただろうと思いますね」
同志社大を率いていたのは、部長の岡仁詩(ひとし)(1929~2007年)だった。岡は、選手の能力を最も発揮させる戦い方を模索し、型にとらわれないプレースタイルを確立した指導者だ。平尾をはじめ、林敏之、大八木淳史ら個性的な選手を擁し、1980、82、83、84年度の大学選手権を制した。岡が薫陶を受けたのは、星名秦。星名は南満州鉄道(満鉄)で「特急あじあ号」の設計に携わり、戦後に同志社大の工学部長、学長などを務めた人物だ。星名の「ラグビーは型にはまってはいけない。何でもできるスポーツだ」という教えを、岡は後進に伝え続けた。
同志社大時代に岡の自由なラグビーを学び、留学先のイギリスでさらなる自由なプレー環境に身を置き、自分を磨いた平尾。その後も、何ものにもとらわれない思考で、ラグビー界に新風を吹き込んだ。
神戸製鋼で主将に就任すると、チーム練習を週3日に減らす。日本代表監督時代は、ニュージーランド出身のアンドリュー・マコーミックを主将に指名した。次世代育成のプロジェクトも立ち上げた。もしも平尾が健在なら、9回目の開催にして初めて強豪国以外で開催されるワールドカップ(W杯)の日本大会に、今までにない斬新なアイデアを持ち込んだかもしれない。
「彼のキーワードは『自由』です。ラグビーボールは自由の象徴だと話していました。ボールを獲得すれば自分たちに攻撃権があり、自由にラグビーができると。彼が協会の中枢にいれば、いろんな動きが生まれたと思います。W杯で日本にどれだけラグビー文化を残せるか、あるいはラグビーから何を生み出すことができるか。そういうことを考えるのが、すごく得意な人間だったので……。そういう意味でも、亡くなったのはすごく残念です」
岡村は最近、「共進化」という言葉があることを知った。
「もともとは生物学の用語ですが、互いに適応し合うことにより、周りも引き連れられるようにレベルが上がっていくという現象を指す言葉です。伏見工高、同志社大、神戸製鋼で日本一になり、日本代表ではスコットランドを破る快挙を成し遂げた。いずれも、平尾が渦の中心にいたと思うんです」
平尾について行こう、彼を中心にした渦に巻き込まれようと、周りの選手に思わせたものは何だったのだろう。
「人間としての温かみ、心をつかむ言葉、そして緊張感ですね。練習中の写真を撮っていると、時々、すごい剣幕で怒っているんですよ。レンズ越しに見ていても『おぉ、こわ』ってつぶやくくらいですよ。そういう緊張感の中でやっていますから、選手も当然レベルアップしますよね」
渦は、速度が違う二つの流れが合わさった時に生まれる。平尾は、まとわりつくしがらみから自由になることを希求する一方、必要に応じて張り詰めたムードを作り出した。二つの流れが大きな渦になり、数々の栄光をもたらした。
(読売新聞大阪本社・橋野薫、文中敬称略)
◇
ラグビーW杯日本大会の開催が近づいてきた。今日の日本ラグビーに大きな影響を及ぼした「ミスターラグビー」こと、平尾誠二(1963~2016年)の軌跡に、ゆかりの人々へのインタビューで迫ってみたい。
岡村 啓嗣(おかむら・ひろつぐ)
1953年1月17日生まれ。写真家、出版プロデューサー。立教大学卒。東京写真専門学校卒。著書に「同志社フィフティーン」など。主に人物写真を撮影し、羽生善治、熊川哲也らを10代の頃から追い、数多くの写真を発表してきた。2018年、平尾を撮影した35年間の写真と言葉をまとめた「生きつづける言葉――情と知で動かす」を発行した。
希代のリーダー対決、美しきノーサイド
読売新聞2019/02/13 11:15配信記事より引用
松尾雄治(65) 元新日鉄釜石選手兼監督/元日本代表スタンドオフ
松尾雄治が左足で蹴ったドロップゴールは、ゴールをそれた。
1985年1月15日、国立競技場でのラグビー日本選手権は、3年連続で新日鉄釜石と同志社大の対戦となった。このシーズン、釜石は選手兼監督の松尾が率いて全国社会人大会7連覇を達成した。対する同志社大は主将代行の平尾誠二を軸に大学選手権3連覇を果たしていた。当時30歳の松尾は、挑戦者をこんなふうに見ていた。
「平尾を中心にできてきたチーム」
超満員の国立競技場、松尾は出るのか?
この一戦が例年の日本選手権以上に注目を集めた理由の一つが、松尾の左足首だ。全国社会人大会中に左足首を負傷、患部に病原菌が入って悪化し、同志社大戦を前に入院を余儀なくされた。本人は出ないつもりでいた。だが、主将の洞口孝治らに「5分でもいいからグラウンドに立ってくれ」と懇願され、さらに新日鉄の幹部からも出場するよう説得された。松尾は当日、入院先から直接、国立競技場に乗り込む。試合前に患部から膿(うみ)を吸い出す管を抜き、麻酔の注射を3本、4本と打って、枯れ芝のグラウンドに飛び出した。
「左足首がとれてしまいそうなほど痛かったのに、試合開始の頃には(麻酔が効いて)感覚が全くなくなっていた。『先生、試合中に足が折れちゃったらどうしよう』って医師に聞いたら、『大丈夫だ。感じないから』って」
希代のゲームメーカーによる直接対決。観客席は超満員に膨れあがっていた。前半は同志社大が展開力を発揮し、リードした。23分には平尾がステップで防御を引きつけ、ウィングの赤山泰規にパスを送ってトライを演出した。
松尾のドロップゴール失敗は、4点を追う28分だった。
「テーピングでグルグルに固定していた左足で蹴っても、そんなの無理に決まっていた。でも、あれは布石になっている」
松尾に触発されたのか、5分後には平尾が、右足でドロップゴールを狙う。ボールは約30メートル先のバーを越え、13-6とリードを広げた。松尾のお株を奪う、してやったりの追加点。クールな平尾が、珍しく右拳で小さくガッツポーズをつくった。このシーズン、チームがドロップゴールを狙ったのは、これが最初で最後だったと記憶している同志社大の選手もいる。平尾は、それほどまれなプレーを選んで、成功を収めた。
逆手に取ったドロップゴール合戦、駆け引きで引退の花道
しかし松尾は、したたかな策を隠していた。
釜石が逆転し、15―13とわずかにリードして迎えた後半20分過ぎ。ゴール前5メートル、ほぼ中央の位置で、釜石はマイボールのスクラムを得る。ここから出たパスを受けた松尾は、ほんの一瞬動きを止めると、パスするでもキックするでもない、でも何かをたくらんでいるように感じさせるモーションを見せた。これに、同志社大の防御が戸惑う。松尾は外へ膨らむようなコースを走ると、相手のタックルを振りほどき、ウィングの永岡章に長いパスを送った。チームを勢いづけるトライが右隅に決まり、松尾が打った布石は成就した。最終スコアは新日鉄釜石31―17同志社大。ドロップゴール合戦では平尾に負けたが、駆け引きでは九つ年上の松尾が一日の長を示し、チームを勝利に導いた。
「(永岡のトライシーンは)僕はドロップゴールを蹴ると見せかけて、狙わなかった。『松尾がまた何かやってくるぞ』と相手が思ったところで、ロングパスを投げて裏をかいた」
試合後、松尾はチームメートに担がれ、国立競技場のファンの声援に手を振ってこたえた。これが松尾の引退試合になった。その夜、東京都内にあった新日鉄の寮で開かれた日本選手権7連覇の祝勝会を、同志社大の主力選手たちが訪れた。試合後は敵も味方もなく健闘をたたえ合う、ラグビーの「ノーサイド精神」を体現した一幕。その感動を語る時、松尾の声は今も弾む。
「平尾や大八木(淳史・元日本代表)たちが来てくれて『松尾さん、おめでとうございます』と。負けたチームの選手たちが、相手の祝勝会に出てくるなんて、それまでのラグビーでは起こらなかった。まさにノーサイド。びっくりしたし、そんな時代になったのかと思った。平尾は『松尾さんが試合に出てこないと思っていたから、油断してましたわ』なんて言っていましたね」
出会った瞬間、気づかされた才能
松尾と平尾は1982年、ニュージーランド遠征を控えた日本代表候補の合宿で、初めて同じグラウンドでプレーした。松尾は、日本代表OBで平尾の恩師でもある山口良治・伏見工高監督(当時)から「お前以来の逸材だぞ」と聞かされていた。実際に大学2年生だった平尾を目にし、即座に山口の言葉通りだと感じた。
「いやぁ、本当にびっくりした。ボールの捕り方とか、キックの仕方、タイミング。パッと見て『こりゃすごいな』と。今の野球で言うなら、大谷(翔平=大リーグ・エンゼルス)君みたいなものじゃないかな。大谷君がボール投げたら、たぶん周りが『うぉっ』と、なるでしょ。僕ら(トップクラスの)スポーツ選手は、そういうことが一目で分かるものだからね」
練習や試合を重ねるうち、平尾の最大の長所が判断力にあるとも分かってきた。得点差、残り時間、グラウンドのどのエリアで攻防が展開されているかを、いつもきっちり頭に入れて、プレーを選択できる。松尾が司令塔の役割だと考えて磨いてきた能力を、平尾もまた、備えていた。
「チームを勝たせるため、その時に何が一番大切なのかを平尾は分かっていて、的確にプレーを選んだ。ラグビーに個人的な勝ち負けはないけど、いつか僕は彼に負けるというか、彼の作るチームに負けるのかなというふうに感じていた」
2人の違いは「平尾が自由なラグビーを求めたこと」
「まつおゆうじ」と「ひらおせいじ」。字数が同じで音の響きも似ている2人。新日鉄釜石と神戸製鋼という赤いファーストジャージーを着る製鉄会社の社会人チームを、日本選手権7連覇に導いた実績は、名前以上にそっくりだ。「ミスターラグビー」という言葉からファンが連想するのも、2人のどちらかではないか。
共通項の多い2人は現役時代、顔を合わせる機会があると、互いのラグビー観を熱っぽく語り合った。たびたび、酒も酌み交わした。東京都内での日本代表合宿中、宿舎から六本木へと繰り出し、生バンドをバックに歌える店で羽目を外した夜もある。ただし、その翌日の試合で平尾が左ひざを骨折する大けがを負ったため、平尾が引退するまで、生バンドの件を松尾は内緒にしていた。スポーツ界にまだ、豪傑たちの気風が残っていた時代のエピソードといえるだろう。
語り合う中で松尾には、平尾のラグビー観が、自分と違うことも分かってきた。
「決定的な違いはね、平尾が理想のラグビーを追い求めたということ。彼の理想は『ボールを持った者が、自由奔放にいろんな判断をすればいい』というものだった。僕のラグビーには『この場面ではこういうプレーをしよう』という決まりごとがあって、全員が同じプレーを思い描いた。僕も若い頃、平尾のような考えを持ったことはあったけど、かなえられなかった。ボールを持つ個人の判断に全員がついていくようなラグビーは、個々の体力、技術が上がってこないとできない。平尾は『一人ひとりがもっと強くなって、いろんな判断ができないと、日本は世界のラグビーに勝てないんじゃないか』とも言っていた。彼は正しかったと思う」
サインの機知に、うなる先輩「日本語の方がいい」
1983年10月、日本代表は敵地でのテストマッチで、ウェールズ代表を追い詰めた。24―29で惜敗したが、全員が走りに走ってボールをつなぐ日本の展開ラグビーに、「赤い竜」と呼ばれる強豪がたじたじになった。松尾は背番号10のスタンドオフ、平尾は12のセンターで出場していた。
松尾が思い出し笑いするのは、試合の数日前にグラウンドで交わしたやり取りだ。
「平尾が『松尾さん、サインは日本語の方がいいんじゃないですか』と言ってきた。相手は日本語が分からないんだからと。『あー、そうだ! もっと早く言えよ』っていう話だよね」
日本では、連係プレーのサインを「Aの1」や「Bの2」といった具合に、アルファベットと数字を組み合わせることが多かった。松尾が慣れ親しみ、国際試合でも何の疑いもなく用いてきた流儀だ。
「サインを日本語にしてから、いきなり連係がやりやすくなった。『平尾の横にナオさん(フルバックの谷藤尚之)』とか『オレから小林(センターの小林日出夫)、そこに平尾が回って』とか、その方がみんな分かりやすい。『Aってなんだっけ』なんて考えることもないから」
迎えた試合の後半、松尾はスクラムの場面で「千田左(ちだひだり)」と叫んだ。これを受け、右フランカーの千田美智仁(新日鉄釜石)が、スクラムを組んだ後で右側から左側へひっそりと移動。スクラムからボールを拾い上げた千田は、そのまま左に持ち出すと、約35メートルを独走してトライを奪った。国内での試合だったら、簡単に手の内がばれて通用しないはずの日本語のサインプレーが、きれいに決まった。
松尾の戦術眼と、平尾の柔軟な発想が結びつき、貴重なトライを引き出した。日本代表屈指の名勝負として、この試合は今も語り継がれている。
W杯釜石開催実現にも、スター共演で一役
2人を結びつけるもうひとつのキーワードが「震災復興」だ。1995年の阪神大震災では神戸が、2011年の東日本大震災では釜石が壊滅的な被害を受けた。松尾は振り返る。
「神戸も震災でひどい被害を受けたでしょう。練習グラウンドから水が湧き出してグチャグチャになってしまって。釜石も震災後、見たことがないほど、ひどい状態になった。それにしても、新日鉄釜石と神戸製鋼は、誰が決めたのかっていうくらいそっくり。なにも震災に遭うところまで……」
東日本大震災からわずか4か月後。松尾は神戸入りし、神戸製鋼のゼネラルマネジャー(GM)を務めていた平尾とのトークショーに出演した。会場は16年前の被災から復興した神戸製鋼の練習場・灘浜グラウンドで、開催日は7月18日だった。その日の早朝、サッカーの日本女子代表「なでしこジャパン」がドイツでのワールドカップで初優勝したニュースが、日本にもたらされた。震災以来ずっと重苦しい空気に包まれていた日本列島が久々の明るい話題に沸き返り、人々を勇気づけるスポーツの力を、国民は再認識した。
そんな日に、松尾は「ラグビーW杯の釜石開催」という威勢のいいアイデアを、タイミングよくぶち上げた。これに、平尾もすかさず共鳴した。震災後にW杯の釜石開催を、影響力のある有名人が公衆の前で披露したのは、この時が初めてかそれに近いケースだったとみられる。ラグビーライターの大友信彦が著した「釜石の夢~被災地でワールドカップを」(講談社文庫)から、2人の発言を引く。
松尾「これはまだ夢みたいな話なんだけど、僕らが『スクラム釜石』という支援組織を立ち上げて、今呼びかけているのが、2019年W杯の試合を釜石に持ってこよう! という運動なんです。津波に襲われて、釜石の町は今メチャメチャで、見るに堪えない状態ですが、これから復興に向かっていくシンボルとして、ワールドカップの試合を開催したい(以下略)」
平尾「釜石でワールドカップの試合があったら、僕も絶対に見に行きたいですよ。(中略)釜石が中心になって、仙台なんかともプロジェクトを組んで、東北全体から『復興の狼煙(のろし)』をあげたらエエと思うなあ」
スクラム釜石は、新日鉄釜石のOBたちで結成した被災地支援のNPO法人で、松尾は「キャプテン」という立場にある。トークショーは、スクラム釜石がW杯の開催要望書をつくって釜石市長に提出してから、わずか5日後に開催された。松尾は今、トークショーでの発言意図を、こう説明する。
「大勢の人がいる前だから、そういうホラも吹くわね。あの頃、本当にW杯を釜石でやれると、僕は思っていなかった。夢の夢、そのまた夢の物語だった。W杯なんて、国立競技場と花園ラグビー場の2か所でやると思っていたくらいだから。ただ、神戸はその頃、もう震災から復興していた。たわごとかもしれないけど、釜石も復興しなきゃいけないという意味で、W杯の話をした」
思いよ届け、復興のスタジアムへ
ところが、その後の展開は、松尾の想像を上回る。平尾とともに、あの日のトークショーで語り合った夢物語が、着々と実現へ向かっている。
2015年3月、釜石市は神戸市などとともに、W杯日本大会の12開催都市のひとつに選ばれた。津波で全壊した小学校と、隣接する中学校の跡地に「釜石鵜住居復興スタジアム」が新設され、2試合が行われることになった。スタンドは常設が約6000席で、本大会では仮設の約1万席を用意する。2017年に釜石で起きた山火事で焼け残ったスギを使ったベンチや、旧国立競技場のいすなどを再利用。W杯の釜石開催は、震災復興とともに、大きな競技場を持たない小さな都市でも世界的なスポーツイベントを開催できることをアピールする機会となりそうだ。
しかし――。ともにまばゆく輝いた現役時代から心を通わせ、震災復興でも活動をともにした後輩は、2016年に帰らぬ人となった。松尾の胸中には、こんな思いが去来する。
「W杯に平尾がいないのは、本当に残念。日本のスポーツ界は、大切な人材を失ってしまった。ただ、平尾だけじゃなく、日本ラグビー界のために死ぬ気で頑張ってくれた先輩たちは、たくさんいる。そういう人たちも、平尾と一緒に釜石開催を喜んでくれるんじゃないかな」
「絶対に見に行きたい」という希望は、かなわなかった。でも、平尾の思いはこの秋、釜石にも届くはずだ。(文中敬称略。読売新聞大阪本社・橋野薫、東京本社・込山駿)
◇
平尾誠二が及ぼした影響を抜きに、今日の日本ラグビーやワールドカップ2019日本大会の開催は語れない。選手として、指導者として、1980年代から輝きを放ち、社会に向けて力強いメッセージも発し続けた「ミスターラグビー」。その軌跡に、ゆかりの人々へのインタビューで迫る。
松尾 雄治(まつお・ゆうじ)
1954年1月20日生まれ。立教大ラグビー部出身の父親の影響で幼少期からラグビーを始める。東京・目黒高3年で全国大会準優勝。明治大に進み、スクラムハーフで日本代表に選ばれたが、北島忠治監督の指示でスタンドオフに転向し、才能をさらに開花させた。4年で日本選手権優勝。新日鉄釜石では選手、主将、選手兼監督として、全国社会人大会と日本選手権で7連覇を達成した。日本代表キャップ24。
引退後はスポーツキャスター、運送会社の社長、成城大ラグビー部監督などを務めた。約6年前から東京都内の繁華街で会員制バーを経営するかたわら、講演やNPO法人「スクラム釜石」の活動にも精力的に取り組んでいる。
哲学するラガーマン~スズカン教授の追想
読売新聞2019/03/15 11:17配信記事より引用
政界や教育界で盟友だった鈴木寛・元文科副大臣(55)
「原点や本質、理由を問い続けた『哲学するラガーマン』。平尾さんから発せられるひと言ひと言が、私にとっては『目からウロコ』で、本当にその通りだなと思うんです。なんて頭のいい人だろうって。全部自分の経験から、練りに練り上げた言葉を使われます。会うたびに、時を忘れて話し込みました。人生で一番刺激を受けた人の一人です」
東大と慶大の両方で教授を務める「スズカン」こと鈴木寛(ひろし)・元文科副大臣(55)は、一つ年上の平尾誠二と30代前半で出会った。1996年頃のことで、当時は通産省(現・経済産業省)に勤めていた。平尾と『イメージとマネージ』を共著した編集工学研究所長の松岡正剛に紹介されたのをきっかけに、東大卒のエリート官僚はラグビー界のヒーローと「スポーツで日本を変えよう」との志を共有、スポーツ振興や次代を担う人材育成に心血を注いだ。
平尾語録に心酔
鈴木を心酔させたのは、どんな言葉だったのだろう。
「僕の中には『平尾語録』があるんです。その一つが『俺は選手っていう言葉は使わない』。選手って、選ばれた人でしょ。『俺はプレーヤーって言う』と。プレーヤーっていうのは、楽しむ人ですよね。一部の人が選ばれて、その人たちに必要以上のプレッシャーや責任を負わせるというスポーツのあり方や、そういう日本の側面を変えたい。スポーツはみんなが楽しんで、はつらつとやるものなのに、スポーツをやることによって重荷を背負っていくようなことになってしまう。『必死の形相でやるのは、スポーツではない』ということも、おっしゃっていました。平尾さんはラグビーからものを見ているんですけれども、そこに『日本人論』や『教育論』、『社会論』とか、そういうものが含まれていました」
語録から、もうひと言。
「プレーヤーにとって、特に日本のアスリートにとっては何が一番大事なのかというと、それは『判断力とコミュニケーション力だ』と。『逆に言うと、スポーツをやる意味というのは、それを養うところにあるんだ』とも話していました。かつてフィギュアスケートには、氷上に描かれた円などの図形に従って滑る規定(コンパルソリー)というのがありました。平尾さんは『日本のラグビーはメチャクチャきれい。ラグビーに規定があったら世界一だ」と言っていましたね。決められたことをきれいにやる能力や技術が高いから、相手がいない状況でのパス回しなんかは美しい。でも、ラグビーは相手とのインタラクション(相互作用)でやるスポーツで、状況に応じて局面が変わっていく。ラグビーにとって大切なことは、まず状況判断。ボールを持って走るのか、蹴るのか、モールを作るのか。それを高速に、的確に判断する。加えてチームメートとコミュニケーションを濃密にとって、状況判断や次の行動への展開のイメージを共有する。『自分はチームを作る時、ひたすら判断力とコミュニケーション力を磨くためのトレーニングをやる』と語っていました。平尾さんはそういうことを理路整然と、ものすごくコンセプシャル(概念)なレベルから具体的な作業のレベルまで、落とし込めていました」
新国立は「霞ヶ丘がエエに決まってる」
もうひとつ、鈴木が励まされた大切なひと言がある。
官僚から参院議員に転身していた鈴木は2011年9月までの2年間、文部科学副大臣を務めた。20年オリンピック・パラリンピックの東京招致計画で、メインスタジアムとする国立競技場の建て替えについての議論をリードした。
「16年五輪の招致は、晴海方面にスタジアムを新設するという漠然とした計画でたたかい、それが東京の敗因の一つになったと指摘されていました。その反省を踏まえ、20年五輪の招致で私は文科省内の調整をして、具体的なメインスタジアム計画をまとめました。どこに建てるか、平尾さんに相談したら『そらお前、霞ヶ丘で造り直した方がエエに決まってるやんか』と。国立競技場は今ある場所で建て替えるべきだと、即答でした。都市計画決定を見直したり、反対派と調整を進めなくてはいけなかったりと、あの場所に建て直すためには、水面下で難しい話がいっぱいあったんです。だけど、『霞ヶ丘で造り直した方がエエ』という言葉に、後押しされました。あの言葉は、平尾さんらしい論理から出たものじゃありませんでしたね。霞ヶ丘の芝を踏んで戦い、満員のファンを誰よりも沸かせてきた人の体からというか、太ももから発せられたような力を感じました」
神戸復興の象徴、総合型スポーツクラブを設立
スポーツで日本を変えるという2人の志は、2000年3月に実を結んでいる。平尾が長くラグビーと生活の本拠とした街であり、鈴木のふるさとでもある神戸市に「スポーツ・コミュニティ・アンド・インテリジェンス機構(SCIX=シックス)」が誕生した。スポーツの分野では全国で初めて、非営利組織(NPO)として経済企画庁(当時)から認可を受けた。
神戸製鋼のゼネラルマネジャー(GM)になっていた平尾と鈴木が、力を合わせて設立。発起人には、元プロテニスプレーヤーの沢松奈生子さん、サッカーJリーグのヴィッセル神戸に所属していた永島昭浩さんら、兵庫県ゆかりのスポーツ選手が名を連ねる。地元を愛する心が、平尾と鈴木の原動力だった。
「設立に向けて動き始めたのは、1995年に起きた阪神大震災の傷痕が、まだ癒えていない頃でした。私たちは『どうやって神戸を立ち直らせるのか』ということを意識しました。復興を目指す神戸市民の精神的支柱だった平尾さんが理事長に就き、無名だった私を副理事長に選んでくれたんです。神戸には『神戸フットボールクラブ』(1970年、日本初の社団法人クラブとして誕生)という伝統もあります。震災復興にあたって原点に返り、スポーツクラブの文化を再興しようということも、考えの中にありました」
SCIXに息づく平尾イズム
SCIXは、神戸製鋼で培われたラグビーを軸に、スポーツを通じた地域社会の形成を目指す。年代、性別、競技レベルを問わずに参加できるラグビー部を運営し、サッカー、ラグビー、アメリカンフットボールの指導者を対象にセミナーなども開催している。「どこにボールを運べば味方が有利になるのか」といった空間認識能力を養うために考案した「スペースボール」を、兵庫県内で広める活動にも力を入れている。2017年時点で国内に3580あり、全国の市町村の80%以上に設置されている「総合型地域スポーツクラブ」の先駆けでもある。
「企業と地域が、いいものを持ち寄ってつくったスポーツクラブで、サポートする会社の業種も横断的。それまでは『学校体育』だった日本のスポーツ界に、誰もが楽しめるコミュニティーを作るという理念を持ち込みました。平尾さんは同志社大卒業後、イギリスに留学して、ラグビーの名門クラブチームで活躍されました。私も通産省時代、Jリーグ発足の仕事に携わり、ドイツなどのスポーツクラブ文化をサッカーの側から見た経験があります。それぞれがヨーロッパで感じたことを、日本でも実現しようとしました」
SCIXの理念を説く「概要」にはこんな一節がある。「より多くのスポーツ遊人たちとネットワークし、コミュニケーションとコラボレーションを不断に深めていく」。縦の強固なつながりではなく、緩やかな横のつながりを想定している。
「通産省にいた頃、日本は携帯電話、モバイル、電子商取引といったインターネット政策の黎明期(れいめいき)で、私はその担当でした。私たちは、それまでのピラミッド型、中央集権型の社会構造が、インターネットによる自立分散協調型、ネットワーク型の社会に変わるということを直感しました。監督が指示を出す野球などでは、チームが中央集権型になりがちですが、ラグビーはまさに自立分散協調型です。試合が始まったら、監督は観客席で見ているわけですから、指示は出せない。プレーヤーが自分たちで状況判断して、自分たちでコミュニケーションしてプレーする。その競技を修めた達人・平尾誠二の言葉は、新たな社会、新たな組織論について、クリアなイメージを授けてくれました。私はよく、ラグビーアナロジー(ラグビーとの類似性)で世の中を考えますが、そのほとんどは平尾さんから受けたインスピレーションに基づきます。ものを考える時のOS(基本ソフト)の非常に大事な要素を、平尾さんから授かったのです」
それぞれに日本を担う才能を育む
人材育成。それは、鈴木が若い頃に思い定めたライフワークだ。通産官僚時代に山口県へ出向していた2年間、萩市にある松下村塾にたびたび足を運んだ。吉田松陰が開いた松下村塾は、幕末から明治時代の日本を先導した伊藤博文や高杉晋作、山県有朋らを輩出したことで知られる。
「山口にいた頃、松下村塾には20回くらい行きました。東京から離れた辺境で2年くらいしかやっていなかった、とても小さな塾が日本をつくった。無限の力を持っている若者を育てるというのは、すごいことだと実感し、東京に戻ってから1995年、通産官僚の傍ら「すずかんゼミ」をつくりました。若い人を集めて、塾というか、ひたすら語り明かすということを始めました」
平尾も日本ラグビー協会強化委員だった1996年、「平尾プロジェクト」を始めた。ラグビー未経験者を含め、将来の日本代表の発掘、育成を目指した。
「平尾さんとは、若者育成について話すことが多かったですね。私がすずかんゼミでやっていたのも、分野は違えど、日本代表を作るということでした。『平尾さんはラグビーの日本を担う人材を作ろうとしている。我々も、ITや教育の世界で日本代表を目指そう』と、私はゼミの参加者たちに説いたものです。そこからIT、ベンチャー、後に日本を代表する会社の社長、ソーシャルアントレプレナー(社会起業家)など、多士済々な人材が育ってくれました」
盟友の政界転身も強力にサポート
鈴木は2001年、参院選に立候補した。だが、30代の若い野党系新人には、後援会長がなかなか見つからなかった。そこへ助け舟を出したのが、人脈の広い平尾だった。
「ファッション業界で『BA-TSU』というブランドを設立し、表参道を拠点に一世を風靡(ふうび)した松本瑠樹さんと、平尾さんは家族ぐるみで仲良くされていました。『スズカンっていう僕の親友が、東京から参院選に出ることになったんです』と、私を紹介してくれました。松本さんに後援会長を引き受けていただけたおかげで、私は原宿駅前のおしゃれなスペースを、選挙事務所として借りられた。候補者の私以外、事務所内にネクタイをした人が1人もいないという、それまでの常識とは違う選挙戦を展開した末に、初当選できたんです」
W杯をきっかけに、見つめ直してもらいたい
平尾不在のワールドカップ(W杯)日本大会は、9月に開幕する。平尾の後押しを受け、鈴木が尽力した国立競技場の建て替えは、残念ながらW杯に間に合わなかった。
「そもそも日本がW杯を招致できたのは、日本のラグビーが世界で、それなりの存在感を示してきた上に、成り立っています。そんな歴史に、プレーヤーとしての、あるいは指導者としての平尾誠二の足跡は欠かせません。これをもう一度、みなさんに共有してほしい。さらに言うと、平尾さんはラグビーにとどまる人ではなく、ラグビーを通じて日本を変えていきたいと考えていました。哲学しながら行動するリーダーのあり方も、平尾さんに学ぶべきでしょう。平尾さんが何をしたのか、何をしたかったのかを、みんなが考えて行動に移すこと。そのきっかけになるW杯になってほしいし、そのための準備を私も続けていきたいと思います。ラグビーボールひとつで、みんながひとつになる体験を多くの人にしてほしいという思いも、平尾さんは持っていたはずですから」
(地の文は敬称略。読売新聞大阪本社・橋野薫、東京本社・込山駿)
鈴木寛(すずき・ひろし)
1964年2月5日、兵庫県生まれ。東大教授、慶大教授、日本サッカー協会理事。灘中、灘高、東大を卒業して1986年、通産省(当時)に入省。資源エネルギー庁、国土庁、山口県庁、機械情報産業局などで勤務。 慶大SFC助教授を経て2001年の参院選で初当選。07年、2度目の当選を果たす。在任中、文部科学副大臣を2期務め、超党派スポーツ振興議連幹事長、東京オリンピック・パラリンピック招致議連事務局長などを歴任した。15~18年、文部科学大臣補佐官を4期務めた。
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