運命の一戦!ラグビーW杯準々決勝南ア戦は平尾誠二さんの命日
本当に日本代表にとっては本当に運命の一日ですよね。日本代表のミスターラグビー平尾誠二さんの命日が日本代表にとっての初めてのラグビーワールドカップ決勝トーナメントの初戦。ご存じない方もいらっしゃるかも知れないので本当に運命的なのは現ラグビー日本代表ヘッドコーチジェイミー・ジョセフは、現役時代に平井誠二さんが日本代表監督の時に日本代表に選ばれたという経歴があります。強敵の南アフリカ代表との闘いにはなりますが、是非勝ち上がって頂きたいですね。天国で平尾誠二さんも見守っていると思います。
「運命」南アとの準々決勝は平尾誠二さんの命日 ラグビーW杯
神戸新聞NEXT2019/10/14 20:35
1次リーグ最終戦。後半残り10分間の死闘は、前半の鮮やかな攻撃以上に心を揺さぶられた。日本はスコットランドの圧力を耐え抜き、9度目のラグビー・ワールドカップ(W杯)で初めてベスト8入りを果たした。
台風19号の影響で開催すら危ぶまれた大一番。試合前には6万7666人の大観衆が黙とうを捧げた。ジェイミー・ジョセフ・ヘッドコーチ(HC)は勝利インタビューでまず甚大な被害に触れた。「タフな時間帯でそのことも思った」。猛追を受けながら被災地の苦境に思いをはせ、選手たちは最後まで諦めない心をプレーで表した。
快挙から一夜明けた14日、リーチ・マイケル主将は「さらに歴史をつくっていきたい」と準々決勝の南アフリカ戦を見据えた。2位での決勝トーナメント進出なら19日だった試合日は、1位突破により20日に。神戸製鋼の黄金期を築き、日本代表監督を務めた平尾誠二さん(享年53)の命日である。
ジョセフHCは平尾ジャパンで中核を担い、一夜明け会見を仕切った日本ラグビー協会の藪木宏之広報部長は、神戸製鋼時代の平尾さんの後輩だ。藪木さんは言う。「運命ですよ」。特別な日。桜の勇者たちが、再び新たな地平を切り開く。(山本哲志)
平尾誠二を語る(1)進化したラグビーの創造者だったのに
読売新聞2018/12/27 10:30配信記事より引用
上空からグラウンドを見下ろしているかのように、次々と防御の穴を見つけ、自在に攻める中学生がいた。童顔で、子鹿のように細い手足。それが平尾誠二だった。
1977年秋、京都・西京極競技場での「京都ラグビー祭」で、陶化中の3年生だった平尾は、修学院中と対戦していた。伏見工高―花園高の前座試合。伏見工の監督だった山口良治は、教え子たちのウォーミングアップに立ち会いつつ、平尾少年のプレーに目を奪われた。
「『あそこが空いているから蹴れ』と思って見ていたら、ポンと蹴る。『前が空いた』と思ったら、自分でボールを持ってダーッと走る。私が思い描いた通りのプレーをしていた」
それから間もなく、山口は伏見工の近くにあった平尾の自宅を訪ねた。心を込め、ありったけの言葉を尽くして、入学とラグビー部入りを誘った。この子と一緒にラグビーをしたい――。その一心だった。
「平尾本人は、目をクリッと見開いて、私の日本代表時代の話を聞いてくれた。だけど、平尾のお父さん、お母さんは、けんもほろろやった。あの頃、京都のいい選手はみんな(府内きってのラグビー強豪校の)花園高に進学したから。帰り道は『平尾が花園高に行ったら、3年間は勝てないぞ』と思いながら歩いたことを覚えている。伏見工に来てほしかったけど、半ば諦めていた」
だが、監督の情熱は少年の胸の奥まで届いていた。翌年2月、平尾の入学願書が伏見工に届く。山口は飛び上がって喜んだ。その時点ではまだ、伏見工は年末年始の全国高校ラグビー大会に出たことさえなかった。それなのに、たった1人の入学願書を見ただけで、チームの歴史が変わる日が来ることを確信した。
「その瞬間、3年後に日本一になるという構想が描けた」
京都有数の不良学校からラグビーの名門校に生まれ変わった伏見工の物語は、1980年代に一世風靡したテレビドラマ「スクール・ウォーズ」のモデルとして、広く知られている。
校内暴力で荒れた学校に、体育教師として赴任したラグビー元日本代表選手の山口。校舎の廊下をバイクで暴走する生徒の前に、筋骨隆々の体で立ちはだかった。学校近くの喫茶店を見回り、タバコを吸っているのを見つけては、叱り飛ばした。厳しくも決して見放さず、少年たちを更生させた。
1975年、ラグビー部監督として初めて臨んだ公式戦は、花園高に0-112で大敗した。そんなどん底から、部員たちの心と体をひたすら鍛え直していった。「信は力なり」をモットーに掲げ、猛練習を課した。グラウンドに顔を出さなくなった部員がいると、自宅を訪れ、向き合って話を聞いた。チームは徐々に力をつけた。平尾が2年生だった1979年度、府大会決勝で花園高を倒して全国大会に初出場し、ベスト8まで進出した。
「平尾は1年生からチームの中心で使った。あの子を抜いたゲームは考えられなかった」
3年生になった平尾が主将になった1980年度。この年の伏見工にとって、最大のライバルは大阪工大高(現・常翔学園)で、互角の勝負を3度演じた。最初は春の近畿大会。8-10で惜敗した試合後、山口は平尾を殴ったことを覚えている。
「カッとなったのか、平尾が相手フォワード陣の中に突っ込んでいった。細身の彼には『相手に絶対捕まったらあかん』って教えていたのに。いくらキックがうまい、パスがうまいといっても、相手に狙われて、捕まって、足でも踏まれてけがしたら、プレーできなくなる。鬼ごっこのように、相手のいないスペースに走れと言っていたのに」
小柄な選手が体の大きな相手選手に捨て身で突っ込んでいった時、それを気迫のプレーだとして褒める指導者もいるだろう。だが、山口は「合理的ではない」と、しかりつけた。そのあたりに単なる熱血指導者とは一線を画し、理論と戦術に精通した名将たるゆえんがありそうだ。
夏の国体決勝での再戦は、10-10の引き分けで両校優勝。リードしていた終了直前、ボールを持った平尾のキックがタッチラインの外に出ず、逆襲を受ける。ライン際を走った相手バックスにトライを奪われ、追いつかれた。たとえ真横でも、平尾がタッチに蹴り出してさえいれば、そのままノーサイドで伏見工の単独優勝だった。できるだけ相手陣地の深くまで蹴ろうとした判断ミスが悔やまれた。
「平尾の真面目な性格かな。でも、国体で勝っていたら、次の大一番で勝てなかったかもしれない」
1敗1分けで迎えた3度目の大工大高戦は1981年1月7日、満員の花園ラグビー場での全国大会決勝だった。平尾はその4日前、準々決勝の秋田工戦で、左太ももを負傷していた。
「強い打撲でね。決勝の朝、ぬるま湯に漬からせてマッサージしてやった。本当に祈りを込めた。『何もしなくていい。走らなくてもいい。ああせい、こうせいと仲間に指示するだけでいいから、グラウンドに立ってくれ』と、平尾を送り出した」
またも競り合いになった。互いに1本ずつペナルティーゴールを決め、3-3で引き分ける寸前だった。伏見工は、スクラムからのこぼれ球を拾ったフランカーの西口聡が縦に突進、タックルを受けながらも、スクラムハーフの高崎利明にボールをつなぐ。すると高崎は足の状態が限界に近かったスタンドオフの平尾を飛ばし、センター細田元一へとパスを放った。最後は細田からパスを受けたウィング栗林彰が左タッチライン際を駆け抜け、決勝トライを決めた。
ロスタイム、自陣深くのスクラムから出たボールを受けた平尾が、国体決勝の反省を生かす。痛む左足でほぼ真横に蹴り出し、きっちりと試合を終わらせた。伏見工7-3大阪工大高。平尾を中心とする伏見工が、花園出場わずか2度目で初優勝という快挙を遂げた。
人目をはばからずに涙する監督の姿は、「泣き虫先生」として人々の記憶に焼きついた。山口は2013年、国際的な競技の統括団体「インターナショナル・ラグビー・ボード」(IRB。現ワールド・ラグビー)が、ラグビーを通じて社会貢献した人に贈る「ラグビースピリット賞」を、日本人で初めて受賞している。授賞理由には「多くの生徒の人生をより良いものへ変え、当初弱小で荒れていたチームを数年のうちに全国優勝に導いた」とあった。不良少年を立ち直らせて高校日本一にたどり着いたストーリーは、IRBの機関紙にも掲載され、日本でのラグビーの教育効果が注目された。
山口の指導が、ワールドカップ(W杯)日本大会の招致成功の一助になったのは間違いない。
あの賢い教え子が「順番を間違えるとはね…」

2011年のW杯ニュージーランド大会前、日本代表の壮行会で。右から平尾、山口、日本代表スクラムハーフの田中史朗。伏見工OBの田中は15年W杯にも出場し、日本が南アフリカを破った大金星に貢献した(山口良治さん提供)
平尾は2016年10月20日、胆管細胞がんのため53歳の若さで他界した。山口は、平尾が病気になったことまでは知っていたが、病名は知らされていなかった。その前年に行われたラグビーW杯イングランド大会の際、開催地で再会する約束をしていた。
「ロンドンにおいしいレストランがあるから食事しましょう、ということで。日本―スコットランド戦の翌日に。楽しみにしていたら『すみません、ちょっと病気になって入院しないといけなくなって』と連絡があった。その時は、彼が死ぬなんて思ってなかったから『大事にしろよ』と。まさか、あんな病気とは」
亡くなった朝のこと。伏見工のOBで、同志社大や神戸製鋼でも活躍した細川隆弘から電話がかかってきた。細川は平尾のいとこでもある。
「細川に『元気にしてるか』って聞いたら、『平尾さんが亡くなられたんですよ』って。信じられなかった。親が子を亡くして嘆き悲しむのを見聞きするけど、そんな気持ちだった。教え子はたくさんいるけど、あれほど関わった子はいなかったから」
約4か月後、神戸市で「感謝の集い」が開かれた。山口は「親より先に逝くなという大事なことを教えてやれなかった」と、言葉を詰まらせた。その思いは今も消えない。
「あの賢い平尾が順番を間違えるとはね。本当は(平尾が亡くなったことは)早く脳裏から消えてほしい。でも消えない。『W杯が日本で開催される、どう思いますか』って、皆さんに聞かれる。そのたびに嫌でも平尾のことを思い出してね」
2019年9月20日、W杯日本大会が始まる。前回大会で、強豪・南アフリカ相手の大番狂わせを含む3勝を挙げた日本代表は、初のベスト8入りを狙っている。同時に日本のラグビー界に何らかのレガシーを残す役割も担っている。ただ、山口は日本代表の戦いぶりに、今ひとつ納得できない思いも抱く。
「『目には目を』とばかりに、大きな外国人を相手に日本も大型化で挑もうとしている。大きな相手にドカンと当たって、攻撃を繰り返している。昔の日本人がやっていた鬼ごっこみたいな、相手に捕まらないラグビーが考えられなかったかなぁ」
そして、どうしても、まな弟子の姿がよみがえってしまう。平尾が生きていれば、W杯日本大会で、どんな役割を果たしただろうか、と。
「平尾のスペースを突く力は、本当に卓越していた。それを突き詰めようとしたから、進化したラグビーを創造できたんだと思う。でも(指導者としての)平尾のラグビーは、まだ進行形だった。もっとやらせたかった。彼に代わるリーダーが出てくるといいな、と思う。目先のことじゃなくて、未来を考えて創造するリーダーが」
孫たちにみる平尾の面影
山口は1991年に脳膿瘍、2010、13年に脳梗塞を患い、生死の境をさまよった。伏見工は平尾の卒業後も3度の全国制覇を成し遂げた。だが、学校統合により校名は消え、現在は京都工学院が後継校となっている。
「脳梗塞って、暗い病やわ。人に会うのも嫌になるし、うまく話せないから、しゃべるのも嫌になる。極力明るく生きようとしてるけど、右手はしびれるし、歩き回るのもつらい。トレーニングって、やればやるほど強くなったり、変わっていったりするものだけれども、今は何も変わらへん。病気やから仕方ないけど……」
そんな山口を勇気づけているのが、ラグビーに熱中している2人の孫の活躍だ。2人とも中学卒業後、ニュージーランドのハミルトンボーイズ高に留学した。留学を勧めたのは、平尾だった。
「今は帝京大でプレーしている上の子が中学3年で進路が決まっていなかった時、平尾がいろいろと海外の話なんかをしてくれた。おじいには伝えられんことを、伝えてくれた。小さい頃から平尾にかわいがってもらっていたから、影響力は大きかったと思う。兄の影響で、下の子も留学した。下の子は、足の運びが平尾にそっくり。右をパッと見ながら左へステップを切って相手を抜いていくような動きがね」
病気に屈しそうになっていた泣き虫先生の目が輝き、声に力が宿った。孫たちの中に、平尾誠二は今も生き続けている――。
(読売新聞大阪本社・橋野薫、文中敬称略)
平尾 誠二(ひらお・せいじ)
1963年1月21日生まれ。京都市立陶化中でラグビーを始める。京都市立伏見工2年で全国大会ベスト8。3年で全国制覇。同志社大に進み、中心選手として史上初の大学選手権3連覇に貢献した。卒業後は約1年間の英国留学を経て神戸製鋼入り。新日鉄釜石と並ぶ日本選手権7連覇を成し遂げた。
同志社大2年の1982年に当時の史上最年少となる19歳4か月で日本代表入り。通算35キャップ。ワールドカップには第1回の1987年から3大会連続出場。91年大会はジンバブエを破り、日本のW杯初勝利に貢献した。現役時代のポジションはスタンドオフ、センター。97年に日本代表監督に就任。99年のW杯では監督として日本代表を率いた。
山口良治(やまぐち・よしはる)
1943年2月15日生まれ。福井・若狭農林高でラグビーを始め、日大に進学。日体大に編入し、卒業後、京都市役所でプレーした。日本代表キャップ13。現役時代はフランカーで、ゴールキッカーを務めた。1975年に伏見工の監督に就任。5年目に大八木淳史らを擁して全国大会初出場。翌年度は主将の平尾を中心にして全国制覇した。
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