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日本人にとって重要な1日 8月15日だから観ておきたい映画

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日本人にとって重要な1日 8月15日だから観ておきたい映画

日本人にとって本当に重要な1日ですよね。昭和20年8月15日。昭和天皇の玉音放送が放送され国民に向けて戦争が終わる=日本が敗戦することを告げた日ですよね。時代が昭和から平成そして令和の現代になり朝からテレビを見ていましたが、あまり終戦記念日ということをふれる事はありませんでした。(たまたま見ていたテレビだけなのかも知れませんが)お節介オヤジは右翼でも左翼でもありませんが、この8月15日は忘れてはいけない重要な1日だと思います。お節介オヤジの親父の兄弟は原爆で二人も亡くっています。そんな家庭で育ったからかも知れませんが…そんな8月15日だからこそ是非、観て頂きたい映画を紹介させて頂きますね。

 

硫黄島からの手紙



  • 戦況が悪化の一途をたどる1944年6月、アメリカ留学の経験を持ち、西洋の軍事力も知り尽くしている陸軍中将の栗林忠道(渡辺謙)が、本土防衛の最後の砦ともいうべき硫黄島へ。指揮官に着任した彼は、長年の場当たり的な作戦を変更し、西郷(二宮和也)ら部下に対する理不尽な体罰も戒めるなど、作戦の近代化に着手する。
  • 第2次世界大戦時の最も悲劇的な戦いと言われる“硫黄島の戦い”を、日本側の視点から描いた戦争映画。硫黄島でアメリカ軍を悩ませた伝説の陸軍中将である栗林忠道と彼の部下たちによる死闘が描かれる。監督は『ミリオンダラー・ベイビー』のクリント・イーストウッド。『ラスト サムライ』の渡辺謙、嵐の二宮和也ら、日本人俳優が出演する。イーストウッドが日米双方の視点から“硫黄島の戦い”を描く“硫黄島プロジェクト”第2弾作品としても注目だ。

生き残る力と黙祷する礼節

映画.COM特集ページより引用

太平洋戦争で最も多くの血が流された硫黄島の戦いを、クリント・イーストウッド監督が日米双方の視点から描くことによって、06年映画界を代表する画期的なイベントとなった史上初の2部作「父親たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」。この2部作について、映画評論家・翻訳家の芝山幹郎氏に総評を寄せてもらった。(文:芝山幹郎

「こんなに大勢の若者が犬死にするなんて」――かつて、映画のなかでクリント・イーストウッドはつぶやいた。映画とは「続・夕陽のガンマン」だ。イーストウッドが演じていたのは賞金稼ぎのブロンディだ。豪快で痛快で愉快な作品だったのに、あの場面には色濃い哀切が漂っていた。

ブロンディは、やはり悪党のトゥーコ(イーライ・ウォラック)と南北戦争の激戦地を通りかかる。彼がそこで眼にしたのは、つぎつぎと斃れていく若い兵士たちの姿だった。ブロンディが、着ていたポンチョを脱ぎ、瀕死の兵士にかけてやるシーンを思い出す人もいるのではないか。

「父親たちの星条旗」を見ていたときも、「硫黄島からの手紙」を見ていたときも、私はこの場面を思い出した。ブロンディは、多くの死を目撃する。自らの手で死をもたらしもする。そして、彼は生き残る。ただ、生き残ったからといって勝ったわけではない。彼が、銃の腕前を自負したり、強運に鼻をうごめかせたりするとも考えにくい。苦い思いを胸の底に沈めて静かに去っていく、などといえば、ロマンティックにすぎるだろう。

「生き残る」とは、どういうことか。生き残る確率の非常に低い場所にいながら、なおかつ生き残った人間は、なにを思うのか。

もしだれも生き残らなかったら、すべての出来事は闇から闇に葬られてしまう。よしんば生き残ったとしても、体験した地獄は、終生その人についてまわる。自明のことだが、楽ではない。もしかすると、戦時平時を問わず、人生とはなべて勝者のない負け戦、それも、延々と続く負け戦なのではないだろうかと、私はときおり思う。

「星条旗」の兵士は、どのように死に、どのように生き残ったのだろうか。

「手紙」の兵士は、どのように死に、どのように生き残ったのだろうか。

硫黄島には、背筋の凍る戦闘があった。不条理なまでに電撃的な死が大量にあった。イーストウッドは、まず死を問うた。広大な荒地からも、人間の感情からも色彩を奪い、いつどこからやってくるかわからない死を「物質」のように示してみせた。

同時に彼は、戦場の背後の戦争を描いた。政治の介入を述べ、感情の荒廃を語り、銃弾以外の要素に破壊される人間の姿を見つめた。

「生き残り」の意味はそこでも問われる。「延々と続く負け戦」という言葉は、そこから浮上する。ただし、負け戦には2種類がある。降伏する負け戦と、降伏しない負け戦だ。

人生はむごい。戦場はもっとむごい。人はあっけなく死ぬ。にもかかわらず、生き残る者はいる。なぜかといえば、彼らは、この残酷な事実に白旗を掲げなかったからだ。銃を撃ち、穴を掘り、弾をよけ、偶然や幸運の力に助けられ、ときには死者を装って、彼らは生き延びる。だが、なりふりかまわず、ではない。冷静と沈着はもとより、勇気も繊細もユーモアも、そこでは求められる。

こう書きながら、私は思う。イーストウッドは、映画の戦場と生活の荒野で生き残った人だ。「荒野の用心棒」から「硫黄島からの手紙」までの道のりは、想像を絶するほど長い。そして、悪路だ。その長い悪路を、イーストウッドは乗り切った。なおかつ彼は、慢心も油断も慨嘆もしていない。だからこそ、彼には悪路が見える。地滑りや崖崩れや亀裂や陥没も見落とさない。怪我をしても病を得ても、それを命取りにしない知恵を、彼は持っている。だから、降伏はしない。一方でイーストウッドは、自分がアイラ・ヘイズや栗林忠道中将になる可能性を否定していない。折り取られた命に黙祷するハートと礼節は、2本の映画を貫く太い柱ではないか。

父親たちの星条旗



  • 「許されざる者」「ミリオンダラー・ベイビー」のクリント・イーストウッド監督が、太平洋戦争最大の激戦だったといわれる硫黄島の戦いを日米双方の視点から描く映画史上初の2部作。本作はその第1弾で、アメリカ側の視点による作品。硫黄島の擂鉢山に星条旗を打ち立てた6人の兵士の写真の真実と、戦場から生き残り米本土に帰還した3人のその後の人生を描く。

巨大で恐ろしいキャンバスにどきりとする細部を滴らせて

映画.COMより引用

やはりそうだったのか、という納得ではなくて、そうかそうだったのか、という感嘆。イーストウッドの新作「父親たちの星条旗」を見ると、反射的にそんな言葉が浮かぶ。

映画の背景は、硫黄島の激闘である。日本軍2万名が必死で防戦する黒い砂の島に、米軍3万名が押し寄せる。「太平洋戦線で最も血が流された戦い」はもちろん凄まじい。米軍は、上陸第1日に早くも2000名の兵を失う。殺伐とした島で展開される戦闘は、むしろ慄然とさせられる殺戮劇に近い。

が、もうひとつ大きな主題がある。島に星条旗を立てる兵士たちを撮った、あの有名な写真だ。イーストウッドは、写真を通じて「英雄」の意味を探る。生き残った兵士たちは、なぜ戦争債券の宣伝に駆り出されたのか。

広い視野と深い焦点を確保しつつ、イーストウッドはこの難問に迫る。理屈で迫るのではなく、映像の力と肉体の温度で迫る。硫黄島もシカゴの街も中西部の平原も、それぞれに異なった拍動を刻む。スターを使わず、画面の色彩をウォッシュアウトし、一定のリズムでフラッシュバックを用い……いつものことながら、彼の技術には無駄な飾りがない。巨大なキャンバスにどきりとする細部を滴らせつつ、イーストウッドは、みごとに安定した歩調で132分の長丁場を踏破する。原題の「旗」が複数になっていることも見落とさないでおこう。

日本のいちばん長い日




1945年8月15日の知られざる真実を追ったノンフィクションを映画化

  • 日本がポツダム宣言を受諾し、降伏へと至るまでに二転三転した道のりと、終戦前夜の事件を描く。監督は『クライマーズ・ハイ』の原田眞人、共演は役所広司、本木雅弘ほか。
  • 1945年7月、連合国は日本に無条件降伏を求めるポツダム宣言の受諾を要求。降伏か、本土決戦かの結論が出ないまま、同年8月、広島と長崎に相次いで原爆が投下される。そんななか、終戦反対派の青年将校たちはクーデターを企てるのだが…。

2019年11月30日 23:59まで配信©2015「日本のいちばん長い日」製作委員会 監督・脚本:原田眞人

松坂桃李インタビュー『戦争映画出演で気づかされた 何も知らずに生きてきた27年』

ORICONNEWS配信記事より引用

戦後70年を迎える今夏、太平洋戦争をテーマにした映画やドラマが続々と公開、放映されるなか、映画『日本のいちばん長い日』での松坂桃李の熱演が光る。松坂が演じたのは、太平洋戦争末期、終戦に反対し、日本の未来を思いながらも、狂気にかられていく若き将校、畑中健二。将来の日本のためにすべてを捧げて生きた純粋な青年に心身ともになりきった松坂の姿は、現代の価値観や正義だけで戦争を考えるのではなく、当時の人たちの状況、気持ちに寄り添うことで理解が深まることをいまの若い世代に教える。松坂が演じたからこそ、彼の世代に伝えられることがある。松坂にとっては、初めての戦争作品となった、本作への熱く深い想いを聞いた。

本当に悔しくて、情けなくて…

――降伏か、本土決戦か。1945年8月15日、敗戦を伝える玉音放送が流れるまでの内閣と陸海軍、そして昭和天皇が繰り広げる緊迫の攻防が描かれた『日本のいちばん長い日』。松坂さんにとっては、初めての戦争作品になりましたが、本作のオファーを受けたときの心境とは?
松坂 最初は、原田(眞人)監督、そして(作品世界の)真ん中に立っていらっしゃる役所(広司)さんや、周りを囲む本木(雅弘)さん、山崎(努)さん、大先輩の方々と一緒にお芝居ができる作品に参加したいという、役者としての意志を(自分のなかに)強く感じました。お話をいただいたときは、すごくうれしかったんですけどね……。――「けど」?
松坂 最初の動機はそうでしたが、戦争映画に出演するのは初めてで、実在した畑中健二という人を演じるにあたって、僕が戦争について何も知らないということに直面したんです。70年前に起きた出来事を、僕は何も知らないし、知ろうともしなかった。本当に悔しくて、情けなくて……。そんな状態で作品に入らなきゃいけない、何も知らなかった自分に対して、嫌気がさすというのか。70年前を生き抜いた方たちのおかげで、いまの平和な僕らの日常があるのに、それを実感することもなく、何も知らずに27年間生きてきたんだなと。……だから本当に、この作品に関われたことは、役者としてもそうなんですけど、僕自身にとっても、すごく大きな意味があった。改めてこの作品に参加できたことは、大きな出来事だったと思っています。――打ちのめされるほどの無力感から、どのように脱却し、撮影に挑まれたのですか?
松坂 監督からいただいた資料をしっかりと頭に入れ、軍事訓練を受けて、日常的な所作も含めた、軍人としての動きを体に取り込むことで、畑中たちが生きていた頃に流れていた時間を、自分のなかで体現する。そういう準備をして、現場に行ってからは、役所さん演じる阿南さんと対峙したときに、わき出てきた感情や気持ちを大事にしました。

自分の客観性が出てくるとぶれそうで怖かった

――昭和天皇のご聖断が下った後、クーデターを企てる畑中少佐にとって、陸軍大臣・阿南の存在はどのように感じましたか?
松坂 クランクインした日に、阿南さんとお酒を酌み交わすシーンを撮ったんです。そのとき、阿南さんに言われた「どんどん行け!」って言葉と表情が、自分のなかにずっと焼きついていて。その後の撮影中にも、ときどきフラッシュバックすることがありました。それくらい畑中の支えになったというのか、阿南さんの言葉を純粋に信じた結果、最後まで畑中を生き抜くことができたと、僕は思っています。――最初にあのシーンを撮るとは、すごい演出ですね!
松坂 本当にありがたかったです。撮影中は、一瞬でも気が緩んで、自分の客観性が出てくると、畑中という人物がぶれそうで怖かった。“これでいいのか?”って、現代ならではのヘンな迷いみたいなものが、ふと出てきてしまう瞬間があったんですよね。でも畑中という人は純粋で、阿南さんの言葉を信じて疑わないまま、宮城事件を引き起こして自害するところまで行き着く。最期まで(純粋さを)保つことが、自分のなかではすごく辛いことでした。でも辛いと思った瞬間、もうつぶれてしまうので……。だからこそ、現場をちゃんと見て下さっていた原田監督のジャッジメントにどれだけ救われたか。監督の「OK!」のひと言で、自分を保っていられたと思いますね。――畑中にとっては、正義を体現したような阿南さんとも対立し、苦しい立場に立たされますね?
松坂 阿南さんの口から、ポツダム宣言を受諾すると聞いたとき、いままで信じてきた真実を、目の前で無理矢理ひっくり返されたような衝撃が走りました。腹の底から、言葉にならない、とてつもなく大きな感情がこみ上げてきましたね。あのとき現場で、緊張感とともに、温かみみたいなものも阿南さんから感じることができました。70年前に起きた空気をしっかりと感じながら、演じることができた、忘れられないシーンです。――放送会館へ乗り込んだ畑中が、マイクに向かってひとり、演説する場面も忘れられないシーンです。
松坂 悲しいですよね。いままで畑中の信じてきたものが全面的に否定されてしまう。後半へいくにつれて、ずっと腹のなかにとどめていた、叫びたい思い……悔しさだったり、悲しみ、どうすることもできない無力感、いろいろな感情が、大きなかたまりのなかから、どんどんわき上がってくるんです。でもどの感情よりも、畑中のなかではやはり、阿南さんの存在、父というのか、恩師、憧れ、目指すべきところというのか、本当にひとつには括れない、絶大な存在感としていちばん濃くにじみ出ていたと思います。それを頼りに、撮影に臨んでいました。

いまの僕ができる、数少ない役割のひとつ

――完成した映画をご覧になったとき、畑中の生き方をどう感じられましたか?
松坂 その純粋さゆえに、間違った方向に走ってしまったわけですから、純粋ということさえ果たしていいのかどうか……。畑中は、どうして変わることができなかったんだろう? とかわいそうに思いました。――なぜ、畑中は変われなかったのだと思いますか?
松坂 畑中たちが生きていた瞬間というのは、自分の意見、自分の考えを言葉にすることさえ許されなかった。「本土決戦、徹底抗戦あるのみ」と言われれば、その言葉を疑わないのは当たり前。自分で選択肢を選ぶことも、作ることもできない時代だったからこそ、彼の純粋さが狂気に変わってしまったんだと思います。――この作品に参加したことで、役者としての意識に変化はありましたか?
松坂 この映画には、70年前に将来のことを考え、命を懸けて決断してくれた、大勢の人たちの姿が描き出されています。この作品に参加したことで、戦争を知らない僕のような若い世代が、戦争体験者の方々の想いや願いを、他人事ではなくしっかりと受け取って、次の世代へつなげていく必要があると強く感じました。役者として何ができるかと考えたとき、こういう仕事でもない限り、70年前の出来事を形にして、いまに発信するなんて、なかなかできることではないと思ったんです。自分の目で見て、発信し続けていくことは、いまの僕ができる、数少ない役割のひとつじゃないかと思っています。

日本のいちばん長い夏


昭和38年の座談会を平成きっての文化人たちが再現したドラマ×ドキュメンタリー

2010年の夏、1人のテレビ演出家(木場勝己)が、終戦に関するある出来事の映像化を計画していた。彼の父は戦争経験者だが、その口から戦争の話を聞いたことがなく、人生や生き方を語り合ったこともなかった。1945年に復員した父は、戦後どのような思いで生きてきたのか?父の話を聞きたい。彼が映像化を考えたのは、1963年6月20日に開催された座談会『日本のいちばん長い夏』だった。そこでは、終戦時に政治や軍の中枢にいた者から前線の兵士、庶民など28人が一堂に会し、約5時間に渡って終戦について熱く語り合ったのだ。敗戦で焦土と化した日本だったが、奇跡的な復興を遂げ、1963年当時は高度経済成長真っ只中。団地が次々と建設され、テレビや電気冷蔵庫、自動車までもが庶民の手に届くようになった時代。翌年には東京オリンピック開催も決定しており、まさに日本中がお祭りのような明るさの中にあった。そんなときに、この座談会を企画したのは当時、雑誌の編集部員だった作家の半藤一利(池内万作)だった。演出家は半藤への取材を敢行し、同時に当時の座談会の再現を試みる。演じるのは俳優だけでなく、現在第一線で活躍する多数の文化人という異色のキャスティング。撮影の合間には彼らにも取材を行い、それぞれの戦争観を問う。中には終戦時、まだ生まれていなかった者も。ここで語られるのは、“日本政府はなぜポツダム宣言を最初黙殺したのか?”、“ソ連を仲介とする和平工作の失敗から見えてくるものとは?”、“ポツダム宣言受諾から8月15日の終戦までの経緯”、“当時の庶民の生活や意識、また戦地の兵隊たちの想いとは?”、さらには原爆投下、沖縄の惨劇など、議題は多岐にわたりながら、さまざまな立場、さまざまな世代による多角的な意見の交換は、やがて戦争の真実を明らかにしていく。それは演出家にとって、果たせなかった父との初めての対話でもあった……。

2019年9月12日 23:59まで配信©2010 NHK アマゾンラテルナ

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