お節介オヤジの呟き

日航機墜落から34年 クライマーズ・ハイのモデル上毛新聞の取材

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日航機墜落から34年 クライマーズ・ハイのモデル上毛新聞の取材

日航機墜落から34年、まずは520名もの死者が出てしまった航空事故。この悲惨な事故を忘れない為にも、事故のことを振り返ってみたい。中でも現地での取材を行った地元の群馬県の新聞、上毛新聞での記事に注目したい。

34年前と言えば、携帯電話もインターネットもなかった時代の事故。そんな時代の航空機事故。真夏の夕方に発生した航空機墜落事故、墜落場所が長野県なのか群馬県なのか?お盆休みに入っており新幹線が満席で123便に乗って事故にあってしまった方も多かったと思います。そんな大惨事のことを描いた「クライマーズ・ハイ」は群馬県の上毛新聞では?と言われています。その上毛新聞の取材記事をまとめてみました。

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感想(82件)

鎮魂の思い 灯籠に 日航機事故 きょう34年

上毛新聞 2019/08/12配信記事より引用

日航機墜落から34年 クライマーズ・ハイのモデル上毛新聞の取材

犠牲者への言葉や空の安全を願うメッセージを書いた灯籠を川面に浮かべる遺族ら=11日午後6時50分ごろ、上野村

520人が死亡した日航ジャンボ機墜落事故から12日で34年となるのを前に、遺族らは11日夕、墜落現場「御巣鷹の尾根」の麓を流れる群馬県上野村の神流川で灯籠流しを行い、犠牲者を悼んだ。空の安全と事故の再発防止を祈り、淡い光を放ちながら川面を流れる灯籠を見つめて手を合わせた。

遺族らは約300個の灯籠に「悲しい事故が二度と起きませんように」「天国で見守っていてください」など、亡くなった家族へのメッセージや安全への願いを書き込んだ。アコーディオンやオカリナの演奏が流れる中、川面に浮かべ、故人をしのんだ。

遺族でつくる「8・12連絡会」やボランティア団体「ふじおか・おすたかふれあいの会」が行った。東日本大震災や御嶽山噴火などの犠牲者の遺族も参加し、悲しみを分かち合った。

連絡会事務局長で、次男の健君=当時(9)=を亡くした美谷島邦子さん(72)は式典で「空の安全を守っていくため、明日を生きる次世代の子どもたちに命の大切さや事故のことを伝えていきたい」と語った。

12日は早朝から遺族や日航幹部らが慰霊登山し、夕方には上野村楢原の「慰霊の園」で追悼慰霊式が営まれる。

 

◎遺族の悲しみ 今も… 安全 水面の光に願う

「これからも見守って」「痛ましい事故がなくなるように」―。日航ジャンボ機墜落事故で亡くなった520人をしのぶ灯籠流しが行われた11日、上野村の神流川河川敷には大勢の遺族や関係者が訪れた。事故を風化させまいと、安全な空の実現への願いを込めた灯籠を水面に浮かべた。

「これからも3人で来られるように見守っていてください」。会社員の小沢秀明さん(33)=神戸市=は亡くなった父の孝之さん=当時(29)=に向け、灯籠に書き込んだ。昨年6月に裕美さん(33)と結婚し、母の紀美さん(63)と共に3人で上野村を訪れるようになった。秀明さんは父の年齢を超え、夫という立場になり、「これからは父が見られなかった景色を家族全員で見ていきたい」と力強く語った。

パートナーを亡くした英国人遺族のスーザン・ベイリー・湯川さん(61)は灯籠に「今もあなたを待っています。私は真実と正義を求めていきます」などと英語で書き、川に浮かべると涙を流した。

事故から34年を迎え、安全への思いを次世代に引き継ごうとする人も。東京都東久留米市の小山裕子さん(65)は、妹の山口静子さん=当時(32)=の一家4人を失った。80代後半まで御巣鷹の尾根に登り続けていた両親は3年ほど前に他界。妹家族への慰霊の思いを受け継ぎたいと考え、夫や事故後に生まれた息子らと上野村に毎年訪れている。「若く、これからだった家族の生活が一瞬で失われた。痛ましい事故がなくなってほしい」

灯籠流しには日航機事故の遺族に加え、全国各地で起きた事故や災害で大切な人を失った人たちの姿も見られた。

161人が犠牲となった1963年の旧国鉄鶴見事故の遺族は今回初めて参加。父の義一さん=当時(28)=を事故で亡くした武井浩さん(57)=茨城県=は「日航機事故の犠牲者の冥福を祈るとともに、二度と同じ事故を繰り返させないようにしたい」と話す。東日本大震災遺族の一人、田村孝行さん(59)は「人の命の大切さをあらためて考え、遺族という存在を生まない社会になるよう発信していきたい」と語った。

《変わらぬ想い 日航機墜落事故34年》父子証明 膨大な時間

上毛新聞 2019/08/08配信記事より引用

日航機墜落から34年 クライマーズ・ハイのモデル上毛新聞の取材

昭久さんが最後にタクシーを拾った青山通りに立つスーザンさん=2日、東京都港区

群馬県上野村で発生した日航ジャンボ機墜落事故から12日で34年を迎える。長い年月を経ても、犠牲になった人を悼み、空の安全を祈り、事故の風化防止を訴える関係者の気持ちは変わらない。事故に向き合って苦悩してきた遺族、そうした遺族に寄り添い続けてきた関係者に話を聞いた。

事故で最愛の人失った英国人女性
「あの時、ここで彼を止めていればという思いは今も消えない。なぜあんな恐ろしいことが起きたのか」―。

1985年の日航ジャンボ機墜落事故で、パートナーの日本人男性、湯川昭久さんを亡くした英国人のスーザン・ベイリー・湯川さん(61)=英ケント州。今月2日、昭久さんが羽田空港に向かうタクシーに乗り込んだ東京都港区の青山通りに立ち、思いを語った。

■戸籍記載に26年

34年前の8月12日、仕事で急きょ決まった大阪行き。大手銀行の関連会社役員を務めていた昭久さんは、虫の知らせだったのか、珍しく出張をためらっていたという。新幹線が満席だったため、仕方なく空路で向かうことになった。

昼食時に自宅に戻っていた昭久さんを、当時4歳だった長女と一緒に歩いて青山通りまで見送った。おなかには妊娠9カ月の次女がいた。

「『明日にはまた会えるよ』と言って彼は出掛けていった。その『明日』が来ることを、心のどこかで今もまだ待ち続けている」

2人は婚姻関係になかった。事故に翻弄ほんろうされ、つながりを証明するために、膨大な時間と手間が必要となった。DNA鑑定などにより、2000年に英国で昭久さんと娘2人の父子関係が確定。09年に同国の出生証明書に昭久さんの名前が加えられた。日本の戸籍への親子関係の記載が実現したのは11年。事故から26年が経過していた。

■新たな情報期待

「事故から30年以上が過ぎ、新たな情報が明らかになるのではないか」。長い年月が経過し、これまで難しかった事故調査資料の公開や原因の再検証に期待を寄せる。

墜落直前の様子が収められたレコーダー類、運輸省航空事故調査委員会(当時)がマイクロフィルムに保存している事故調査資料の情報公開と合わせ、相模湾に沈んだままになっている機体の一部の引き上げと検証が必要だと考えている。

単独の航空機事故としては世界最悪の520人が犠牲になった。「情報を共有し、教訓を後世に伝えることは国際社会においても重要。風化を防ぐことにもつながる」とする。

12日に墜落現場の「御巣鷹山の尾根」(上野村)を訪れ、6度目の慰霊登山をする。4年ぶりの登山に娘たちは来られないが、「上野村のどこまでも美しい風景を見ると心が洗われる」という。

尾根で、昭久さんに報告することが二つある。一つは昨年12月、英国の裁判所から「湯川」姓を名乗ることを正式に認められたこと。もう一つは、もうすぐ5人目の孫が生まれることだ。34年前と変わらない、優しい笑顔で喜んでくれるはず。そう信じている。

《変わらぬ想い 日航機墜落事故34年》遺族に寄り添うおにぎり

上毛新聞 2019/08/08配信記事より引用

日航機墜落から34年 クライマーズ・ハイのモデル上毛新聞の取材

「おにぎり、待ってたよって駆け寄ってくれるんさね」。遺族を思いながらおにぎりを作る坂上さん

「何か食べるものありませんか」。やつれた表情の女性が頼ってきた。日航機墜落事故の発生後、何も食べていないようだった。

当時、群馬県藤岡市内の地区の婦人会長で、遺族らの身の回りの世話に当たった坂上シゲヨさん(87)=同市岡之郷=は自宅から米と梅干しを持参し、かゆを作って振る舞った。「とにかくかわいそうで、何も言葉が出なかった」。遺族の近くで動き回った約50日間。その記憶は今も遺族を支える原動力になっている。

■ずぶぬれの服

事故翌日の1985年8月13日、市から婦人会に声が掛かった。茶やおしぼり、氷を急いで準備し、地元の小学校で遺族を迎えた。厳しい残暑の中、「バスから降りてきた遺族の服は汗でびしゃびしゃだった」という。

待機所となった藤岡神流小は3階まで全ての教室が関係者で埋まった。愛する家族の帰りを待つ人たちに、氷水で冷やしたタオルを渡すことしかできなかった。

藤岡市民体育館での遺体の身元確認は10月まで続いた。家族の体の一部が見つかり泣き崩れる遺族、悲惨な現場の様子を吐露する自衛隊員、遺族に蹴飛ばされて頭を下げ続ける日航社員。悲しみにあふれていた。

数年後、「あの時、世話になったのに礼も言えなくて申し訳ない」と遺族が会いに来た。この人たちの手助けをしたいと思い、婦人会OGや市民有志でボランティア団体「ふじおか・おすたかふれあいの会」を立ち上げた。1995年に始まった8月11日の灯籠流しには毎年参加している。

灯籠流しに訪れる遺族らに手作りのおにぎり弁当を配るようになったのは20年以上前。もともと会のメンバーが自分たちの夕飯として作り始めたが、やがて遺族やスタッフの分も用意するようになった。多い年はメンバー全員で朝から準備し、300個以上を作った。「河原で食べると特別おいしいね」と頬張ってくれる。それがとにかくうれしかった。

■高齢化で減少

遺族のために、との思いは変わらないが34年は長い。高齢化で灯籠流しに来られない遺族が増え、会のメンバーも減った。おにぎりを配りきれず、余るようになった。

数を減らさないかと知人から提案されてはっとし、思わず目頭を押さえた。「遺族の方がひもじい思いしちゃ困るでしょ」。河原でおにぎりを食べる遺族の姿が脳裏に浮かんだ。少し時間を置いて考え直し、今年は例年の半分以下の40人分ほどにすることにした。

自分自身も年齢を重ね、いつまで活動できるか分からない。ただ、遺族に寄り添い、笑顔を思い描きながらおにぎりを作る。そこに込めた思いはきっと届くはずだから。

《変わらぬ想い 日航機墜落事故34年》命の限り語り継ぐ

上毛新聞 2019/08/08配信記事より引用

■遺体に頬ずり

日航機墜落から34年 クライマーズ・ハイのモデル上毛新聞の取材

遺体についての資料を見つめる飯塚さん

「遺族はたとえ指一本だけの遺体でも、いとおしそうに頬ずりするんだよ」。ノンフィクション作家の飯塚訓さとしさん(82)=前橋市川原町=は潤んだ目元を隠すように天井を見上げた。

事故当時、群馬県警の身元確認班長として 目の当たりにした光景がよみがえる。事故で人生観が変わった。遺族の 気持ちを第一に、心を 寄せてきた。「語り部」として悲惨な事故を生涯伝えていく決意は、34年を迎える今なお揺るがない。

遺体の身元確認は藤岡市の市民体育館で行われた。最初の遺体が運び込まれたのは1985年8月14日。12月18日まで計127日間に及ぶ確認作業の始まりだった。

手足の指紋、毛髪、歯科治療のカルテ、エックス線写真、マニキュア―。身元特定に結びつく可能性がある手掛かりや情報を必死にかき集めた。何千もの部位となった遺体を検視し、数え切れないほどの遺族と向き合った。「極限の状態。経験も何も関係なかった。遺族のために何とかしたいという気持ちだけが重要だった」

遺族の 悲しみが集約された体育館で、汗まみれで作業した医師、看護師、警察官らの姿を書き残さなければ―。96年に退職し、自然と湧き上がってきた感情だった。書斎にある慰霊塔をモチーフにした置物に手を合わせ、筆を進めた。身元確認作業の日々を記録した「墜落遺体」を出版した。

反響は大きく、全国の講演会に呼ばれるようになった。多くの人と関わる中で、藤岡の体育館以外にも関係者それぞれの“現場”があったことに気付いた。遺族をはじめ、墜落現場となった上野村の住民、自衛隊員などを取材。2001年に「墜落現場 遺された人たち」、12年に「墜落の村」にまとめた。

■止まらぬ意欲

事故から間もなく34年。時間の経過を実感することも増えた。書斎に残る当時の資料を見返し、「あの時に出会った少年はもう立派な大人になっただろう」と思いをはせた。昨年、介護を続けてきた妻が施設に入り、自身も市内のシニアハウスに入居した。近年は体力を考え、遠方での講演は控えている。

ただ、執筆の意欲は止まらない。現在は事故のことや自分を支えてくれた妻のことをまとめたエッセーを書いている。

遺族を思えば、どんなに大変なことも苦しいとは感じなかった。生きているだけで幸せなのだと心に刻まれている。「当時の記憶を命の限り、語り続ける。それが私の責務だ」

日航機墜落事故からまもなく34年 次世代へ安全のバトンを継ぐ

遺族が「いのちの授業」…御巣鷹の尾根

上毛新聞 2019/07/21配信記事より引用
520人が犠牲となった日航機墜落事故を次世代に引き継ごうと、遺族らでつくる「いのちを織る会」は20日、事故現場の群馬県の「御巣鷹の尾根」(上野村楢原)などを見学する「いのちの授業」を開いた。犠牲者にゆかりのある人や小学生ら約70人が墓標や慰霊碑などを回り、命の大切さや安全への願いを胸に刻んだ。

「8・12連絡会」の事務局長で次男の健君=当時(9)=を亡くした美谷島邦子さん(72)らが企画し、2016年から開催している。

参加者はそろいのシャツを身に着け、尾根の登山道を歩いた。頂上付近の昇魂之碑や健君の墓標で手を合わせ、下山前には犠牲者の冥福を祈ってシャボン玉を飛ばした。

健君と同じ東京都大田区立東調布第三小に通う椎名咲月さん(11)は「命の大切さをあらためて感じた」と振り返った。客室乗務員を目指している埼玉県の木野紀香さん(20)は「同世代には事故を知らない人も多い。安全についてしっかりと考えたい」と表情を引き締めた。

村内の追悼慰霊施設「慰霊の園」にも立ち寄り、全員で黙とうをささげた。美谷島さんは「子どもたちに安全のバトンをつながなければと感じる。(日航機事故の経験から)安全文化をつくっていきたい」と話した。

「慰霊の園」清掃に汗…JALエンジニアリング

日航機墜落事故から34年を迎えるのを前に、航空機の整備を担うJALエンジニアリング(東京都、北田裕一社長)の新入社員や有志らが事故の追悼慰霊施設「慰霊の園」(上野村楢原)を清掃し、安全を守る決意を新たにした。

参加者約40人は、高さ約11メートルの慰霊塔や犠牲者の名前が刻まれた石碑をブラシやたわしで丁寧に磨き、周辺の草むしりなどにも汗を流した。

4月に入社した鈴木美和さん(22)は「現場に来たことで本当に事故があったと実感できた。安全を考える意識を持ち続けたい」と話した。

2011年から毎年行っている。一緒に作業した北田社長は「安全を守る責任を謙虚に振り返ることができる場所。新人からベテランまでじっくり考え、行動していきたい」と力を込めた。

クライマーズ・ハイ

  • 1985年、群馬県御巣鷹山で起きた日航機墜落事故をめぐって翻弄(ほんろう)される地元の新聞記者たちの姿を描く社会派ドラマ。実際に記者として日航機墜落の取材をした作家・横山秀夫が自らの体験を反映した同名小説を、映画『金融腐蝕列島 [呪縛]』の原田眞人監督が映像化した。地元新聞社の熱血漢デスクを『ALWAYS 三丁目の夕日』の堤真一が演じたほか、『殯(もがり)の森』の尾野真千子ら実力派が集結。感情が激しく交わる濃密な1週間の人間ドラマに圧倒される。
  • 1985年8月12日、乗員乗客524名を乗せた日航機123便が、群馬と長野の県境に墜落、その一報が北関東新聞社に入る。編集部で全権デスクに任命された悠木和雅(堤真一)は記者として扱う一大ニュースに対する興奮を禁じえないが、中央紙とのスクープ合戦や組織や家族との衝突を経て、命の重さに対しわき上がる使命感を覚える。

「クライマーズ・ハイ」未曾有の悲劇を深追いせず、映画的醍醐味が味わえる佳作に

あの夏の惨劇――直後に動き出す地元新聞記者たちの闘い。編集局内の確執や販売局との対立といった事態に直面し、ブンヤ魂が熱くほとばしる。カオスの中、脇役たちが活写され、局内の管理職・蛍雪次朗、遠藤憲一、でんでんら個性派キャラは、ここぞとばかり全開だ。

 単なる事件記者ものではない。あれから23年経った現在から、極限状態の中を無我夢中で生きた全権デスク・堤真一が、トラウマともなった過去を思い起こし、今また新たな「山」に登り直すという構成を採っている。つまり、1985年の墜落事故は彼の心象風景でもあるのだ。

 カット数の多さを豪語する原田眞人演出は、サスペンスフルではあっても、相変わらず内面の掘り下げにもどかしさを感じさせ、時折インサートされる現代のパートは、過去とうまく反照し合わない。立て籠もった若者たちの描写を一切捨象した権力礼賛映画「突入せよ!『あさま山荘』事件」の原田は、何を血迷ったのか、今度はもっと遺族側を描こうと画策したようだ。だが、原作者・横山秀夫から受けた「君は『クライマーズ・ハイ』がやりたいのか? 日航機墜落事故がやりたいのか?」という示唆が効いたようで、未曾有の悲劇そのものを描くだけの映画では終わらず、あの事故を通過した主人公の、組織という父性からの自立、息子との関係を修復し自身が父性を確立するというテーマは貫かれた。極度の興奮によって感覚が麻痺した状態を脱し、挫折を乗り越えて成長するという物語の核心はかろうじて担保され、映画的醍醐味が味わえる佳作に仕上がっている。(清水節)

映画.com

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