ビデオオンデマンド・BS・CS情報

世界2位の快挙から20年…当時の気持ちを語る 播戸竜二編

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket
  • LINEで送る
Reading Time: 3 minutes



世界2位の快挙から20年…当時の気持ちを語る 播戸竜二編

播戸竜二が語る世界2位。日本には「小野伸二という『太陽』がいた」

Sportivaより引用

1999年ワールドユースについて語る播戸竜二

1999年3月15日、ワールドユース(現U-20W杯)・ナイジェリア大会に出場するU-20日本代表メンバー18名が発表された。

「(自分の)名前があったんはうれしかったし、ホッとしたね。また、このメンバーでサッカーできるんやって思ったんで」

播戸竜二は当時を思い出して、顔をクシャクシャにしてそう語った。

そのメンバー発表から遡(さかのぼ)ること1年前、播戸はガンバ大阪に入団した。当初練習生扱いだったが、しばらくしてプロ契約を勝ち取った。

同年8月には、ワールドユースのアジア最終予選(アジアユース選手権)を目前に控えたU-19日本代表に招集され、SBSカップに出場。そこでのプレーが、当時同チームを率いていた清雲栄純監督に評価され、最終予選に挑む代表チームにも選出された。同大会では全6試合に先発出場し、日本の世界大会出場に貢献した。

この時、播戸の胸中には特別な思いが込み上げたという。

「SBSカップからアジアユースと、みんなと一緒にサッカーができるのは、幸せでしかなかったね。当時、ガンバではプロ1年目で、試合に出ることに必死で、楽しいとか考えている余裕なんて、まったくなかった。でも、代表で(小野)伸二やイナ(稲本潤一)らとプレーして、ホンマに楽しいなって思ったし、少しでも長く一緒にプレーしていたかった。だから(この時)、こいつらに離されないように『がんばってサッカーをやりたい』という気持ちがすごく強くなった」

清雲監督のあと、同代表チームはA代表との兼任でフィリップ・トルシエ監督が指揮することになった。播戸の気持ちは、より代表に傾いて「ガンバでどうこうよりも、代表でやりたい」と思っていたという。そうして、大会2カ月前のブルキナファソ遠征を経て、播戸は本大会のメンバー入りも決めた。

だが、メンバーリストを見て、播戸はハッとした。

「びっくりしたね。『えっ、永井(雄一郎)くんも?』って。(1997年ワールドユースにも出場していて)『2回目やん。1回出たし、もうええやん』って思ったもん(苦笑)」

ワールドユースのレギュレーションが1999年大会から変更され、それまで1回しか出場できなかったものが、年齢さえクリアしていれば、複数回の出場が可能となった。そして、トルシエ監督の要望もあって、当時ドイツでプレーしていた永井が急きょ招集された。

トルシエ監督のモノマネをするなどして、チームを盛り上げた播戸(中央)。photo by Yanagawa Go

同チームにおいて、FWは高原直泰が一番手で、アジア予選ではそのパートナーを播戸が務めていた。しかし、強力なライバルの出現で、播戸のスタメン出場は怪しくなった。代表入りに喜んだのも束の間、播戸は早々に試合に出られない覚悟を決めていたという。

「メンバーを見たら、自分(の立ち位置)がどこにおんのか、わかるよね。あの時も、スタメンを狙うというよりも、サブとして『このチームにどう貢献できるか』っていうことをすぐに考え始めた。それがええのか、悪いのかわからんけど、ガンバでも途中出場が多かったし、そういう状況に慣れているっちゃ、慣れていたんで」

直前のフランス合宿を経て、開催地のナイジェリアに入る前、播戸は”控え組”としてのルールを自らに課した。

「まず、チームの輪を絶対に乱さないこと。チームの雰囲気をよくするために、ムードメーカーになること。練習中から盛り上げて、試合に出たら結果を出す。そして、トルシエ監督をイジる。

監督をイジるっていうのが(チームが)一番盛り上がるんやけど、それをやったら、トルシエ監督もちょっとうれしそうやったんで、これはイケるな、と。(チームが結果を出すうえでは)監督と選手の間で、いかにいい関係を作れるかっていうのは、すごく大事なことやからね」

大会が始まって、初戦のカメルーン戦は1-2で敗れた。それでも、播戸曰く「まったく悲壮感はなかった」。通常、国際大会の初戦を落とすと、グループリーグ突破がかなり難しくなり、チーム内に動揺が走るものだが、そんな空気は微塵も感じられなかったという。

「これで『終わりやな』っていう雰囲気がなくて、『次、またがんばろうぜ』って感じやったね。なぜ、そうなれたか? それは、自分たちに絶対的な自信があったから。この時だけじゃなくて、いつも(このチームは)自信満々やった。

みんな、昔からサッカーがうまくて、その地域では敵ナシ。”王様”だった。それは、いくつになっても変わらへん。だから、この時も『自分たちのほうがうまいし、ええサッカーをしている』『次、勝てばええやん』と、自分も思っていたし、そういう強いメンタルをみんなが持っていたと思う」

結果、日本は決勝まで勝ち進んでいくのだが、最初に大きな”壁”となったのは、決勝トーナメント1回戦のポルトガル戦だった。

播戸は、ポルトガルには「絶対に負けたくなかった」と言う。それは、ホテルでの出来事が引き金になっていた。

「ポルトガルとは同じホテルだった。食事会場に行くと、俺らのテーブルにあったのは、うどんみたいなパスタと、鶏のささみにブロッコリーとニンジンとか……。トルシエ監督は『これ食って、勝たないといかんのや!』って言うんやけど、俺たちは『マジかよ!?』って思った。

で、ポルトガルの食事を見てみると、大きなブロックの生ハムを切って、美味しそうに食べていた。それを見て『おい、あいつらには絶対に負けんとこーぜ』って、みんな、燃えたね」

勇んで挑んだポルトガル戦は、播戸にとって、最も印象に残っている試合だという。

この試合、後半早々に日本が先制するが、その後、ポルトガルのGKが負傷退場。交代枠を使い切っていたポルトガルはフィールドプレーヤーがGKとなり、ひとり少ない10人で戦うはめになった。そこから、ポルトガルの反撃が俄然強まって、後半35分に同点ゴールを奪われ、試合は延長戦に突入した。

延長戦を前にして、トルシエ監督は播戸を呼んでピッチに投入した。

「点を取ってこい」

トルシエ監督の檄を受け、ピッチに立つと、延長後半にチャンスが巡ってきた。小野からのスルーパスが、裏に抜けた播戸の足もとにピタリと収まったのだ。

「これ、チャンスやん」

ドリブルからペナルティーエリア内に侵入し、左足でシュートを放った。

「これ、決まったらVゴールやん。俺、ヒーローやん」

そんな思いが頭をかすめたが、播戸のシュートは”素人GK”の正面に飛んで、まんまとキャッチされてしまった。

「あの時、『これで、俺も終わったな』と思ったね。弾くとかじゃなくて、素人のGKに完璧にキャッチされたんで……。

その後、PK戦になって蹴りたい選手が挙手したんやけど、5人目がなかなか決まらんかった。誰もいかないんで、俺がいかなあかんかなって思ったけど、素人のGKにシュートを止められて、PKまで止められたら、ホンマにヤバイなって思って、当時19歳の俺はちょっとビビってしまった。『あ~、ホンマに自分は弱いなぁ』って思ったね」

結局、PK戦は日本の選手がきっちり決めていくなか、ポルトガル4人目のPKをGK南雄太が止め、最後に日本5人目の酒井友之が冷静に決めて勝利した。

「勝って、ホッとしたわ。シュートを外して負けたら、えらいことになっていた」

播戸は苦笑いを浮かべて、当時のことを振り返った。

このポルトガル戦の勝利を経て、チームはさらに結束し、勢いがついた。とはいえ、チームに生まれた強固な一体感は、試合の結果がすべてではない。他にもいくつかの要因があると、播戸は思っていた。

「一番は、伸二の存在ちゃうかな」

播戸はそう断言した。

「小野伸二という絶対的な”太陽”がいたのが大きいと思う。だって、その前年の6月にW杯(日本が初めて出場した1998年フランス大会)に出てんねんで。そんなこと、俺らの年齢で、当時もやけど、今もあり得る? プロ1年目の選手がW杯に出るなんて、今だってないでしょ。

そういう実力にプラスして、あいつは人としてもええヤツやし、気配りもできるし、リーダーシップも取れる。だから、自然とみんながついていく感じやった。それで(チームは)ひとつにまとまったんやと思う」

チームの誰もが、小野には一目置いていた。

どの世代にも「こいつは」という選手内でも認められる選手が必ずいる。小野はこの世代では、実績、技術、人間性……あらゆる面において別格だった。そんな優れたリーダーに導かれ、「優勝」という目標に向かってひとつになって戦うことで、チーム自体が成長し、日本は世界を驚かせるチームになっていった。


播戸竜二は言う。20年前の日本代表には「トルシエ監督が合っていた」

控え組だったが、試合に出場すれば、懸命にプレーした播戸竜二。photo by Yanagawa Go

1999年ワールドユース(現U-20W杯)・ナイジェリア大会で、日本はついにベスト8の壁を突破し、快進撃を続けた。

播戸竜二は、そんなチームの躍進の理由として、小野伸二の存在の大きさを挙げた。一方で、その小野はチームが勝ち進むにあたって「大きな存在だった」と絶賛したのが、播戸を中心とした”控え組”の存在だった。

播戸は、”控え組”の中でも大きな役割を果たしていた。だが、選手であれば、普通は試合に出て活躍したいと思うはずだ。”控え”という立場に甘んじることは、苦しくなかったのだろうか。

少し緊張感を滲ませた表情で、播戸はこう語った。

「サブであることに『苦しい』とかはないよ。当時、プロ2年目だったけど、(他のメンバーは)みんな、1年目から試合に出ていた。(それに比べて)俺なんて、13試合出場で2点しか取っていない。

アジアユース(ワールドユース予選)で試合に出ていた時も、(このチームで)『俺がレギュラーや』と思ったことはなかった。そんな選手がレギュラーっていうのは、おこがましいと思っていたからね」

播戸をはじめ、控え組はチームを懸命にサポートした。関西人らしく”笑い”のセンスにあふれた播戸は、絶妙なタイミングで”笑い”を入れて、常にチームを和ませていた。また、播戸らはそれだけにとどまらず、チームにとって非常に重要な”控え組”としての役割もまっとうしていた。

「レギュラーの選手たちはいい感じで戦っていたけど、それでも『自分らはレギュラーなんや。安泰やな』って思わせないように、(控え組の)俺らも日々の練習をしっかりこなして(自らの存在を)アピールし、(フィリップ・)トルシエ監督に『こいつを使ってみようかな』と思わせるようなプレーをしていかなあかんと思っていた。

普段はワイワイやっていても、そういう緊張感って大事やからね。それに、レギュラー選手がずっと試合に出て、いいプレーを続けていくことは決して簡単なことじゃない。いつかチャンスが来ると思っていたし、トルシエ監督は使ってくれると思っていたので、その時のために準備を怠らず、そこでいかに自分の仕事ができるか、ということを常に考えていた」

レギュラー組に対して、何かあっても「俺たちが常に控えているからな」という安心感を与えつつ、同時に「気を抜くなよ」というプレッシャーもかける――播戸たち”控え組”は、絶妙なバランスの空気感をチームに漂わせていたのだ。

さらに、チームがいい緊張感を保って戦うことができたのは、「トルシエ監督の存在が大きかった」と播戸は言う。

もちろん、当初は戸惑うことが多かった。

「最初こそ、(トルシエ監督は)19歳、20歳の若いヤツらになめられたらあかんと思ってか、自分の感情をガッと表に出して、俺らの鼻をポキッと折るぐらいの激しさで(選手たちに)対応してきた。練習でも急に怒鳴り散らしたりしたからね」

ブルキナファソ遠征の際には、トルシエ監督は「おまえら、プロとして戦うんだったら、アフリカでもどこでも、現地のモノを食って戦うんだ」と厳命して、現地の硬い鶏肉などを選手に食べさせたり、選手が持参してきたサプリメントを「こんなもん食べているから、日本はダメなんだ」と叫んで、バラまいたりした。

「(そういうトルシエ監督の言動や行動に対して)何やねんって思ったこともあったよ。でもみんな、そういう行動パターンも徐々にわかってきたからね。普段は冗談とかも言うんで、悪い人じゃないっていうのは感じていた。

俺は、トルシエ監督はあの時代に合った『ええ監督やった』と思う。トルシエ監督はよく『歴史を作らなければいけない』『おまえらには才能がある。だから、2000年シドニー五輪、2002年W杯を目指してがんばれ。そうしたら(代表メンバーとして)連れていくから』と言っていた。そういう可能性を監督から言われると、選手はその気になるやん。

それに、練習で決められたことをするのは当然やけど、それを飛び越えるぐらいのことをやらないと、『プロとして成功しないぞ』っていう雰囲気を(トルシエ監督は)作っていた。俺らが若かった、というのもあるけど、トルシエ監督にうまいこと育てられたな、って感じがする」

トルシエ監督について語る播戸

トルシエ監督の猛烈な指導や理不尽なモノの言い方に反発する選手もいた。石川竜也はそのひとりだったが、グループリーグ第3戦のイングランド戦でFKを決めると、ベンチにいるトルシエ監督のところへ一目散に走っていって、抱き合って喜んだ。

その光景を、播戸は「結局、トルシエのところに行くんかい」と笑って見ていたという。厳しい指導も、すべて選手のためである――それを、各選手が感じ取っていたことがわかる象徴的なシーンだった。

はたして、快進撃を続けたU-20日本代表はついに決勝戦に駒を進めた。

相手はスペインだった。早い時間に失点し、リードを広げられ、播戸は後半11分から出場した。スペインの強さは、ベンチから見ていても驚くほどの衝撃を受けたが、実際にピッチに入ってプレーしてみると、その凄さに一段と驚愕した。

「『ちょっとレベルが違うな』と思ったね。だって、イナ(稲本潤一)がボールを取りにいっても取られへんことなんて、Jリーグでは見たことがなかったからね。ボールを取りにいくとクルクルと回されて、”赤子の手をひねる”というのは、こういうことやなって思った。

まあ、自分たちのチームは(累積警告で)伸二が出られへんかったんで、ちょっとみんなナーバスになっていた。けど、シャビとの差はすごく感じたし、(スペインは)伸二がいても『勝つのは難しいやろうな』というぐらいの相手やった」

選手たちがほぼ戦意を喪失し、なかば結果を受け止めているなか、播戸は最後まで懸命に走り回った。スペインに自由にボールを回され、とても奪える状況ではなかったが、それでも「何とかしよう」と食らいついていた。

「もう勝負はついていたけど、最後まで『(自分が)できることをやろう』とボールを追いかけた。そうしたら、帰国後、(自分の)ホームページにメッセージが届いていたんよ。それは、ファンの方からで『友人のスペイン人が”0-4という状況なのに、あそこまでボールを追いかけるなんて、あいつはすごいな”と言っていた』と書いてあった。

それを見て、FWはゴールを決めることが仕事やけど、守備をがんばること、チームのためにプレーすることで(見ている人の)心を打つこともあるんやな、と。これからも、そういう人の心に響くようなプレーをしていかなあかんなって思ったね」

「優勝する」を合言葉にがんばってきたゆえ、2位に終わったことで多くの選手が肩を落としていた。播戸も、プロとして生きていくための”心得”のようなものは得られたが、途中出場5試合、得点はゼロに終わって、満足することはなかった。

また、一緒に戦ってきた仲間である小野らのプレーを見て、逆にプロとして危機感を抱いていた。

「俺は、2位に終わって、先のことを考えていた。プロとして、どうやって生きていくべきか。こいつらと、また一緒にやるためにはどうしたらいいのか。代表チームでは、サブでも仕方がないけど、自分の(所属)チームに戻ったら、最初から試合に出られるような選手にならないと、代表には入られへんし、自分の成長にはならへんって思った」

ナイジェリアから帰国して半年後、播戸は重要な決断を下すことになる。


播戸竜二の誇り。「黄金世代が日本サッカー界を引っ張っていく」

「黄金世代」について語る播戸竜二

1999年ワールドユース(現U-20W杯)・ナイジェリア大会で準優勝となったU-20日本代表。A代表と兼任で同チームの指揮官を務めたフィリップ・トルシエ監督は、そのままシドニー五輪出場を目指す代表チームも指揮することとなった。そして、ワールドユースから1カ月後、そのチームが始動した。

しかし、そこに播戸竜二の名前はなかった。

ワールドユース後、所属のガンバ大阪でもスタメンで出場することがほとんどなく、同シーズンが終了後、播戸は大きな決断を下した。

「(ワールドユースのあと)2000年シドニー五輪から2002年日韓W杯へと続く流れのなかで、(ワールドユースで一緒に戦った)みんなに追いつくには『このままじゃあ、いかん』『スタメンで試合に出て、点を取らなあかん』と思って、1999年シーズンが終了後、ガンバから出て、(J2の)コンサドーレ札幌に行くことを決めた。

シドニー五輪を前にして『J2に行ったら(代表)メンバーに選ばれへんぞ』って(周囲からは)言われたけど、俺は五輪に出るためにサッカーをしているわけじゃないからね。将来、もう一度、(小野)伸二たちとサッカーをするためには、『自分はもっと成長せなあかん』と。そして、自分が成長するためには移籍するしかなかった」

札幌では岡田武史監督のもと、2000年シーズンは30試合出場15得点と結果を残し、チームのJ1昇格に貢献した。さらに、J1の舞台に戻ってプレーした2001年も27試合9得点と、まずまずの成績を残した。だが、日本代表の壁は厚く、2002年日韓W杯を戦う日本代表に選出されることはなかった。

「2002年W杯には、伸二、イナ(稲本潤一)、(小笠原)満男、(中田)浩二らが試合に出ていたけど、(その姿を見て)嫉妬とかはなかった。俺らの世代の代表として『がんばってくれ!』って応援していた。

でも次(2006年ドイツW杯)は、俺も伸二たちと『一緒にサッカーをやりたい』って思った。代表に入るためにはどうしたらいいのか、(その当時は)めっちゃ考えたね」

その結論として2002年、播戸はヴィッセル神戸への移籍を決めた。

「もっと成長したいと思ったからね。それに(当時の)神戸にはカズさん(三浦知良)がおった。カズさんからサッカーを学びたいと思って移籍して、2004年シーズンには17ゴールを取ることができた。

それで、自分なりにも(代表でやれる)自信があったし、『そろそろ代表にも呼ばれるかな』って思っていたんだけど、2005年にケガをして……。2006年には(古巣の)ガンバに戻ったけど、(シーズン序盤は)スタメン出場が少なくて、ドイツW杯には出られへんかった。同世代がたくさん代表メンバーにおったから、あの時は一緒にプレーができん悔しさがあったね」

播戸はその悔しさを胸に秘めて、所属チームで地道な努力を続けた。その結果、シーズン後半に6試合連続ゴールを決めるなどの活躍を見せ、2006年シーズンは最終的に30試合出場16得点という好結果を残した。

ドイツW杯後、日本代表の指揮官となったイビツァ・オシム監督にその活躍を認められて、ついに播戸は初のA代表入りを果たした。2006年10月4日のガーナ戦で初出場し、2007年アジアカップ予選(2006年10月11日)のインド戦で初スタメン初ゴールを決めた。

「オシムさんが監督になって、初めて代表に呼ばれた時はうれしかった。『やっと来たわ。これでまた、みんなと一緒にサッカーができる』と思った。

でもそうしたら、チームには(同世代が)ヤット(遠藤保仁)と加地(亮)、そしてタカ(高原直泰)しかおらんかった。(当時)俺らは27歳ぐらいだったから、まだまだイケる年齢やん。それなのに『なんで、伸二とかおらんねん』って思ったし、ちょっとショックやったね」

播戸は、不思議なほど同世代を強烈に意識し、同世代の仲間と一緒にサッカーをすることにこだわり、常にそれを大きな目標としてきた。

播戸にとって、同世代とはどういった存在なのだろうか。

「特別な存在やと思うし、見えない”絆”があるよね。プロになる前からお互いに切磋琢磨してきたんで、口で言わずとも(お互いに)考えていることがわかる。しかも、19歳、20歳の時にナイジェリアとかに行って、長い時間を一緒に過ごしたことは、一生消えへんからね。

俺にとっては、みんなのがんばりが自分の成長につながっている。昨年も、J3でモト(本山雅志)にピッチで会った時はめちゃくちゃうれしかったからね。(現役が)俺だけやったら『もうええかな』って、引退していたと思う。でも、まだ同世代の多くが現役でやっていて、『あいつら、まだがんばってんな』『じゃあ、俺もがんばらな』という思いにさせてくれる。(同世代というのは)そういう存在だから、自分もここまで(現役を)やめずにこられた」

2018年シーズン終了後、「黄金世代」でまたひとり、小笠原が引退を発表した。

播戸も同シーズン終了後、FC琉球を退団した。その後の所属先は決まらなかったが、あえて「引退」を公言することなく、現在はフリーという立場でいろいろな活動を始めている。

播戸が誇りを持つ「黄金世代」が今後もサッカー界を盛り上げていく。photo by Yanagawa Go

遠藤をはじめ、小野、稲本、本山、南雄太、永井雄一郎らが現役でプレーし、40歳になっても(もしくは40歳を目前にしても)第一線で活躍しているのはさすがだ。それこそ、「黄金世代」と呼ばれるゆえんでもある。

 

播戸は「黄金世代」と呼ばれることに誇りを感じているという。

「みんな、俺らの世代のことが好きやし、俺らが『黄金世代』って言われるのは当然やと思う。それは、(黄金世代のみんなが)それだけのものを背負ってきたから。『プラチナ世代』とかあったけど、代表でちょっとやっただけで、Jリーグの歴史の中で見れば、それほど輝いているわけじゃない。

今は若い選手でも普通に海外に行くけど、伸二たちが海外に行ってプレーしていた頃は、本当に選ばれた選手だけやったし、実際、あいつらは(海外に)出ていかなあかん選手だった。一方で、ヤットとかモトは日本に残って『Jリーグを背負っていかなあかん』という気持ちでやっていたと思う。

俺が中学2年生のとき、カズさんが(Jリーグアウォーズで)風船から出てきたけど、俺も、ああいうキラキラしたJリーグを『もう1回、作らなあかん』という気持ちをずっと持ってやってきた。『黄金世代』は誰もが、そういう気持ちを今も変わらずに持っていると思うし、それをプレーで見せてきたこと、今なお見せている選手がいることを、俺は誇りに思うよ」

小笠原は鹿島アントラーズでアカデミーの仕事を始めるなど、現役を引退した「黄金世代」のほとんどは、サッカー界の仕事に従事している。彼らはいずれ、Jリーグの監督やクラブの社長やGM、協会やJリーグの要職にも就いていくことになるだろう。

「俺らは、引退してもサッカー界に風を吹かせたいね。『黄金世代』って、選手としてもすごかったけど、やめてもすごいなって。ずっとそう言われ続けて、人生をまっとうしたい」

播戸にとって「黄金世代」は”心の拠りどころ”なのだろう。

ワールドユースで世界2位になった最強世代の仲間と一緒にプレーすることを願い、そのためにうまくなろうと一歩ずつ成長してきた。そうして培った自信が、播戸の代名詞とも言える、泥臭くも闘志あふれるプレーに表われ、多くのファンを沸かせる源となった。

これからも、その自信が人生の支えになる。

「みんな、がんばっているし、俺もやらなあかん。これからも、『黄金世代』で日本サッカー界を盛り上げていくことをやりたいなって思う」

播戸の野心は、20年前と同じようにたぎっている。

播戸竜二
ばんど・りゅうじ/1979年8月2日生まれ。兵庫県出身。現在はフリー。琴丘高→ガンバ大阪→コンサドーレ札幌→ヴィッセル神戸→ガンバ大阪→セレッソ大阪→サガン鳥栖→大宮アルディージャ→FC琉球



関連記事:世界2位の快挙から20年…当時の気持ちを語る 小野伸二編

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
最短4分で広告を掲載できる『忍者AdMax』




スポンサー