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世界2位の快挙から20年…当時の気持ちを語る 中田浩二編
中田浩二選手とユーティリティー性が高い選手というイメージですね。そのユーティリティー性を高めたのがフィリップ・トルシエ監督によってセンターバックにコンバートされた訳ですが、提供高校時代はボランチで全国高校サッカー選手権で準優勝のレギュラーメンバーだった。当然、自信があったはずですがコンバートされた時の気持ちなども語ってくれています。
トルシエが怒って教えたフラット3。中田浩二はスプーンの動きを反復
Sportivaより引用
「国際大会の初戦に負けて、これはやれるな、イケるなって、あそこまでポジティブになれたことはなかったですね」
1999年のFIFAワールドユース(現在のU-20W杯)・ナイジェリア大会の初戦、カメルーンに1−2で逆転負けを喫した試合を振り返って、中田浩二はそう語った。

1999年のワールドユースについて語る中田浩二
中田はその後、00年シドニー五輪、02年W杯日韓大会、04年アジアカップ、06年W杯ドイツ大会を経験している。どの大会も初戦の結果が、その後の戦いに大きく影響した。とりわけドイツW杯では、初戦のオーストラリア戦に逆転負けを喫したことが影響し、1勝もできずにグループリーグで敗退した。
だが、この時のカメルーン戦では、負けてもなおポジティブでいられた。それはどういう理由からだったのだろう。
「負けたけど、引きずるような負け方じゃなかったんです。戦術的にやられたというよりも、(身体能力の高い)アフリカ人がゴリゴリ来るところで個人がミスしてやられただけ。たしかに普通は初戦に負けるとバタバタしてしまうんですけど、みんな自信を持っていたし、妙な落ち着きがあった。負けたけど、ある程度主導権を握って戦うことができたので、この先も行けるんじゃないかって思えたんです」
それが確信になり、自信になったのがつづくアメリカ戦だった。グループリーグを突破するために絶対に負けられない試合に3−1で勝ち、チーム全体として戦える手応えを感じたという。
「カメルーンに負けたけど、手応えをつかめそうなところでアメリカに勝ったのはすごく自信になりました」
さらに次のイングランド戦には2−0で完封勝ちした。最終ラインに入った中田にとっては、これも確かな手応えとなるゲームになった。
中田は帝京高校時代にボランチに転向し、才能を開花させた選手だった。
中田は帝京高校時代にボランチに転向し、才能を開花させた選手だった。
だが、フィリップ・トルシエが日本代表監督になってから、中田はボランチではなく、フラット3の戦術において重要なキーを握る最終ラインの一角(左センターバック)に指名された。
「センターバックをやることに抵抗はなかったですね。前年のアジアユースは試合に出られなかったですし、ボランチにはイナ(稲本潤一)、ヤット(遠藤保仁)、酒井(友之)がいた。みんなに負けていると思わなかったけど、ボランチで試合に出るのは大変でした。そのときは試合に出たいという気持ちしかなかったし、試合に出られればどこのポジションでもいいと思っていました」
ボランチの選手がセンターバックに入るのは、今はそれほど珍しくはない。06年から日本代表を率いたイビチャ・オシム監督が”ポリバレント(多様性)”という言葉を広め、阿部勇樹がセンターバックを務めたり、ザッケローニ監督時代には今野泰幸が代表でセンターバックとしてプレーした。しかし、当時のコンバートは少し異例だった。
中田は、どういう意識でセンターバックをやろうとしたのか。
「センターバックだけど、僕の意識の中ではボランチの延長線上でした。当時のセンターバックはマンツーマンタイプが多く、がっつりFWをマークして離さない守備が主流だったし、僕はツジ(辻本茂輝)みたいに人に強いタイプではなかった。バランスを見ながらチャレンジとカバーを繰り返すタイプだったんです。ディフェンダーとしての知識も経験もなかったので、左のセンターバックに入っても、やっていることはボランチとそんなに変わらなかったですね」
とはいえ、センターバックとしての基本的な動きや間の取り方など独特のものを得るためには「学び」が必要だった。リベロの手島和希、そして右センターバックの辻本茂輝と3人で”フラット3”を形成する中で、トルシエからいちばん指導を受け、叱咤されていたのが中田だった。
「よく怒られていましたね(苦笑)。トルシエ監督によく言われていたのは、ラインを揃えて上下すること、相手が前を向いたときは3メートル空けること。動きは直線的ではなく、『スプーン』と言って、弧を描いて動くとか。ほんと細かく言われました。しかも練習が独特。ボールを転がしてやるというよりも、トルシエ監督がボールを持って動くシャドートレーニングがほとんどで、それを反復して体で覚えていく感じだったんです。僕はセンターバックの経験がなかったので、動きを覚えるのに必死でした」
中田は、”フラット3”を組む手島と辻本と、呼吸を合わせるためによく話をしたという。このタイミングで上げると決めたら一生懸命に上がり、常に横を見ながらバランスを取っていた。ただ、”フラット3”は3人でできる戦術ではない。前線の選手がプレスに行き、チーム全体が連動しないとラインを上げることができない。

中田(写真左)はフラット3を組む手島(同中央)、辻本(同右)とよく話をした photo by Yanagawa Go
「ナイジェリアの本大会前は実戦が1試合しかなく、しかも前線との共通理解もそこまでできていなかった。でも、トルシエ監督には『ラインを上げろ』って言われる。そこでけっこう相手にやられたんで、不安はかなりありましたね。正直、こういうディフェンスが通用するのかなぁって半信半疑でした」
不安が大きかった”フラット3”。だが、大会に入ると形になってきた。中田もボランチのときに見せていた彼らしいプレーを見せ、それがチームにとって大きな武器にもなった。
「ボランチよりもひとつ後ろのポジションにいることで、余裕を持ってボールを持てるようになりました。そこから縦につけるボールや、(相手の)裏にボールを出すことができた。そこは自信を持ってやれていましたね」
“フラット3”の守備が試合を追うごとに安定し、日本はグループリーグを突破した。
“フラット3”の守備が試合を追うごとに安定し、日本はグループリーグを突破した。
ベスト16(決勝トーナメント1回戦)の対戦相手はポルトガルだった。
ポルトガルはこの大会ではブラジル、アルゼンチン、スペインと並ぶ強豪で、対戦が決まったとき、日本は苦戦必至と言われた。それでもこの試合、日本は苦戦しながらも勝利をするのだが、中田は、このポルトガル戦が決勝に勝ち進むうえでのターニングポイントになったという。
「ポルトガルは日本をなめていましたね。それでかなりメンバーを落としてきてくれたので、つけ入るスキがあったし、逆に僕らは自信を持ってやれました。でも、ポルトガルは点を入れられるといきなり選手を2人代えて本気になったし、その後GKが負傷退場して10人になっても、勢いがすごかった。PK戦までもつれてしまって苦しんだけど、勝てたことでチームにグっと勢いがついた。ポルトガル戦の勝利は間違いなく大きかったです」
ポルトガル戦に勝って得たのは、準々決勝を戦えるチャンスだけではなかった。中田は、チームがよりひとつになったのを感じたという。
「ポルトガル戦までは、試合に出て勝つことを目標にしたり、優勝を狙っていたり、みんなの考えがちょっとバラバラだったんです。でも、ポルトガル戦に勝ったことでギュっとまとまって、みんなでひとつの目標を見るようになった。みんな、語らずとも同じ画を描けた感じになって、視界が一気に開けたという感覚がありましたね」
中田は、それ以降、そういう感覚を味わったことがなかったという。
「同じような経験は……うーん、なかなかないですね。ただ、04年アジアカップで優勝したときは、苦しんだ分、チームがひとつにまとまった。雰囲気的には似てるかなぁと思いますけど、ここまでの一体感はなかったと思います」
準々決勝のメキシコ戦は攻守ががっちりと噛み合い、この大会のベストゲームと言える完勝(2−0)だった。過去破れなかったベスト8の壁を乗り越え、チームは完全に勢いに乗った。つづく準決勝のウルグアイ戦も「負ける気がしなかった」と中田は思ったという。
「『上を目指そう』ってチームがひとつになっていたし、『歴史を変えよう』って、みんながその気になっていました。そういうムード作りをしてくれたのは、サブ組です。みんなが同じ方向を向いてやれるように、彼らがサポートしてくれたんです」
ピッチ外で戦った選手たちの献身的な姿勢に、中田は胸を打たれたという。
中田浩二が伝えたい黄金世代の一体感。「伸二を信じてついていった」
1999年のFIFAワールドユース(現在のU-20W杯)・ナイジェリア大会で、日本は勝ち進み、ついに決勝進出を果たした。
中田浩二は、その要因のひとつとしてチームの一体感がより増したことを挙げたが、その中で大きな役割を果たしたのが控え組の選手だった。

ナイジェリアでの激闘について語る中田浩二
「あのチームの強みって、試合に出ている選手と出ていない選手が、本当に仲が良かったことなんですよ。純粋に競争しながらも、試合に出られない選手が、チームが勝つためにいろいろやってくれた。普通、チーム内の競争って、一歩間違えるとギスギスしてしまうんです。でも、そういうのがまったくなかった。口では『早く帰りてぇー』って言っていましたけど(笑)。試合に出ている選手はサブ組のサポートに感謝して、ひとつでも多くの試合をみんなで、という気持ちで戦っていた。本当にいいメンバーでした」
選手はそれぞれ目標や目的が異なるが、試合に出て活躍して高い評価を得たいと思っている。それゆえ、日本代表といえどもひとつにまとまるのは簡単なことではない。だが、このチームは徐々に目標が全員共通のものになり、そのためにひとつになっていった。そのキッカケは、決勝トーナメント1回戦のポルトガル戦に勝ったことがもちろん大きいのだが、それだけではなかったという。
「同世代というのが大きかったですね。みんな、しっかりとコミュニケーションが取れていたし、サッカー観が似ているのもあった。本当に楽しくサッカーができた。もちろん、ポルトガル戦に勝って自信がついて、目標が明確になったのも大きい。上を狙えるようになったので、優勝という同じ画を描いていけるようになった。ただ、その中心に(小野)伸二がいたのが、すごく大きかった」
中田を始め、この世代の選手はみな小野伸二の存在の大きさを語る。小野は、チームにとってどういう存在だったのだろうか。
「伸二は、僕らの中じゃ飛び抜けた存在だったけど、それを態度に出すんじゃなくて、みんなでやっていこうという姿勢でチームを引っ張ってくれた。もちろんサッカーだけじゃなく、人間性もすばらしく、ひとりの人間として尊敬していた。だから、僕らは伸二を信じてついていった。ただ、伸二に負けたくない、追いつき、追い越したいという気持ちもあった。『伸二、すげぇ』っていうだけじゃなく、いかに伸二を超えていくか。伸二が僕らの目標であり、最大のライバルだった。そういう選手ってなかなかいないですよ」
小野は、このチームのシンボルだった。
どんな世代にも必ず一人は、チームの選手たちが認める絶対的な選手がいる。96年アトランタ五輪の前園真聖、98年フランスW杯の中田英寿、最近で言えば大迫勇也だろう。チームの勝敗に最も影響する選手だが、ナイジェリアでの小野はまさにそういう選手だった。
しかし、小野は準決勝ウルグアイ戦で、スローインの際の遅延行為でイエローカードを受けた。その結果、累積警告となり、決勝戦は出場停止になってしまった。
日本は小野不在でスペインと戦わなくてはならなくなったのである。
「決勝まで勝ち上がっていくにつれて力がついてきたけど、僕らには運もありました。ポルトガルもベスト16、しかも日本相手じゃなければメンバーを落としてこなかっただろうし、アルゼンチンとブラジルが負けて、準々決勝、準決勝の相手がメキシコとウルグアイになったのも運です。ロナウジーニョがいたブラジルとはやりたくなかったですからね(笑)。でも、スペイン戦は、伸二が出られなくなった。それはチームにとって大きかった。そういう意味では、最後は運がなかったのかなと思いましたね」
決勝、日本の運は尽きたようだった。
小野が不在の中、開始5分で失点し、その後はスペインにいいようにボールを回され、試合の主導権を握られた。
後半6分に4点目を奪われてトドメを刺され、日本は0−4でスペインに敗れた。
「正直、決勝に行ってちょっと満足してしまった部分があった。それは今、思い返してももったいなかったですね」
中田は、苦い表情で当時を振り返った。

決勝ではスペインに完敗し、準優勝に終わった photo by Yanagawa Go
その後、中田は2002年日韓W杯の決勝トーナメント1回戦、トルコ戦前も同じような空気を感じたという。
「99年のスペイン戦と02年のトルコ戦の入る前の雰囲気はまったく同じでした。スペイン戦は当日の朝から2時間もハードにトレーニングして、決勝を戦うような雰囲気じゃなかったし、トルコ戦は(フィリップ・)トルシエ監督が『ボーナス』って言っていましたからね。また、スペイン戦は伸二の代わりにウジくん(氏家英行)が出て、トルコ戦はヤナギ(柳沢敦)の代わりにアレックス(三都主アレサンドロ)を出した。新しい選手が入ってくるのを僕らがしっかりと準備できていたらよかったけど、当日まで誰を使うのかがまったくわからなかったし、決まってからもそのままなんとなくぼんやりと試合に入ってしまった。そこは経験のなさが出て、すごくもったいなかったです」
ワールドユースでは、トルシエ監督自身も世界大会初の決勝で、慣れていない部分があったのかもしれない。不可解な選手起用は、試合を難しくすることで選手の伸びた鼻をへし折り、世界には上があることをわからせたかったのかもしれない。
だが、FIFA主催の国際大会の舞台で決勝に進出することは、当時の日本にとっては奇跡的なことだった。それまでワールドユースはベスト16が最高位で、前年に初めて出場したフランスW杯は3戦全敗だった。そして、この99年以降、日本男子はコンフェデ杯以外、カテゴリー別の世界大会を含めて決勝進出を果たしたことがない。
「今は世界で勝つことがどんどん難しくなっています。だからってわけじゃないですけど、あの時に優勝したかったなという思いはあります。スペインに負けたけど準優勝して、ここまで戦うことができたうれしさはあったけど、やっぱり悔しかった。じつは、高校選手権も準優勝だったんですよ。鹿島ではたくさんタイトルを取っているけど、逃したタイトルもたくさんある。その悔しさがあるからこそ、優勝したときの喜びってすごく大きいんです。それが99年の時にわかっていればと思いましたね」
そう言って中田は、苦笑した。
準優勝の表彰の時は中田は笑顔を見せ、仲間と史上初の快挙について健闘をたたえ合っていた。だが、日本に帰国すると負けた悔しさが募り、あの時こうしておけばよかったと考えることが増えた。自分の今後についても意識が変わったという。
「この大会を経験するまでは正直、日本代表とか、海外移籍とか考えていなかったです。98年にフランスW杯に日本が出たばかりだったし、海外でプレーしていたのはヒデ(中田英寿)さんしかいなかった。日本人が海外移籍とか考える時代じゃなかったんです。でも、大会を通じてできないことが多かったし、差も感じたけど、こういうところ(世界)でやれると楽しいなって思ったんです。もっと上を目指すキッカケになったので、自分にとってはこの大会は大きな転機になりました」
中田は、その後、00年シドニー五輪で主力選手としてプレーし、02年日韓W杯でも”フラット3”を担う一人として全試合に出場した。99年のワールドユースから一貫して同じポジションで起用され続け、この3つの大会すべてにレギュラーとしてプレーした選手は中田しかいない。そこには、トルシエ監督の中田に対する確固たる信頼を垣間見ることができる。
「トルシエの信頼は感じていました。僕もトルシエの期待に応えようとずっとやってきたし、それを評価してくれたと思います。僕はワールドユースで”フラット3”について学んでいたので、他の選手よりもアドバンテージがあったと思うし、チームに戦術を落とし込んでいく役割も担っているのかなって勝手に思っていました。トルシエ監督は、メディア上ではメチャクチャな人だったけど、実際は選手の表情を見てコンディションを探ったりと繊細な部分があったし、選手のマネジメントがうまかった。あの時代、トルシエは僕らに合っていた監督だったと思います」
トルシエ監督によって、中田はその後のサッカー人生の転機になる経験をさせてもらった。そして、ワールドユースのスペイン戦後から6年後、中田はそのトルシエ監督が指揮するフランスリーグのマルセイユに移籍することになる。
「久保建英よりも、小野伸二」。中田浩二が「奇跡的」と語る黄金世代
1999年のFIFAワールドユース(現在のU-20W杯)・ナイジェリア大会で準優勝を果たし、2002年日韓W杯でベスト16進出を果たしたフィリップ・トルシエ監督は、05年1月、”フラット3”の体現者のひとりであった中田浩二を、当時指揮していたマルセイユに「助っ人」として獲得した。
そこには、中田への強い信頼感が見て取れる。

1999年ワールドユースでプレーする中田浩二 photo by Yanagawa Go
当時、海外へ渡り活躍していた日本人選手は中盤の選手が多く、ディフェンダーとしての海外移籍は非常に稀だったのだ。
「ナイジェリアワールドユースから世界を意識し始めて、代理人をつけました。2年後に(小野)伸二、イナ(稲本潤一)、タカ(高原直泰)が海外に出ていって、自分も早く彼らに追いつきたい、追い越したいという気持ちが強かったです。05年にようやくマルセイユに移籍できましたけど、僕らの時は本当に海外移籍のハードルが高くて大変でした。今じゃ考えられないですけどね(苦笑)。伸二たちが海外に行って結果を出したからこそ、今の選手が海外に行きやすくなったのは間違いないと思います」
中田はマルセイユに移籍後、06年1月にスイスのバーゼルに移籍した。07-08シーズンではリーグ優勝とスイスカップの2冠を達成し、08年に鹿島に復帰。その後も鹿島でプレーしつづけ、14年に現役を引退した。
「もう少しやりたい気持ちはありましたよ。現役を続けている選手がうらやましいし、先にやめる悔しさもあった。でも、それがめちゃくちゃ大きいかと言えばそうじゃない。僕は、サッカー選手として自分が思い描いていた以上のキャリアを残せたし、他のチームに移籍するという選択肢もなかった。自分の中でやめるタイミングだなって思ってやめることができたので、そこは幸せだったなと思います」
昨年、同じチームで苦楽を共にしてきた小笠原満男が引退した。鹿島の象徴たる選手がユニフォームを脱ぐ姿を見て、中田は「寂しい」と思ったという。
「まだできると思っていたんでね……。ただ、伸二やイナ、モト(本山雅志)はまだ現役でプレーしている。カテゴリーを変えながらもサッカーをやり続けているのは本当に尊敬ができるし、すごいこと。いつか終わりが来るけど、やれるまでがんばってほしい。僕は、あっさりやめたんで(苦笑)」
中田の言葉にあるように、小野をはじめ、遠藤保仁、稲本、本山、南雄太もまだ現役でプレーしている。彼らが出会ったのは高校時代で、ナイジェリアワールドユースからは20年の時間が経っている。
中田にとって、彼らはどういう存在だったのだろうか。
中田にとって、彼らはどういう存在だったのだろうか。
「いい仲間であり、いいライバルでしたね。鹿島では満男、ソガ(曽ヶ端準)、モト、それに伸二やイナ、みんなに引っ張ってもらった。みんなについていくことに必死になって、無我夢中でやっていたら、自分が思っていた以上のキャリアを残すことができた。そこは仲間のみんなに感謝しかないです。これからも常に刺激し合い、競い合う関係でいたいと思っています」
鹿島で現役を引退したあと、中田はチームに残り、クラブ・リレーションズ・オフィサーに就任した。鹿島での仕事だけにとどまらず、メディアなどの出演も増え、チームとメディアをうまく両立させながら仕事をしている。
これから中田は何を目指していくのだろうか。
「今は、現場よりも経営者になりたいなと思っています。これから日本サッカーの質を上げていくために、W杯を経験した人が監督やコーチになり、そこで見たものを還元していくのはいいことだと思うけど、それだけじゃないと思うんですよ。今、野々村(芳和)さんが社長になって札幌が大きく変わったり、モリシ(森島寛晃)さんが社長になったり。そういう人が増えていくことで、日本のサッカーがもっと変わっていくと思うんです」
中田の言葉どおり、同世代の選手を含め引退したサッカー選手は、指導者の道に進むケースが圧倒的に多い。だが、クラブの方向性や未来を決めていくのはフロントだ。中田は、その経営サイドに立って日本サッカーの発展に貢献したいという。
「欧州では現場だけではなく、経営も引退した選手がやっているじゃないですか。そういうところに僕は挑戦したいし、自分が道を開いていきたい。社長が先頭に立って常に優勝を狙いつつ、工夫して、競争しながらレベルアップしていけば、日本サッカーの質が上がる。そうしていけば、FIFAの国際大会で僕ら以上の成績を出すところに行きつくと思います」
世界全体のレベルが上がっている現在では、カテゴリー別とはいえFIFAの国際大会で決勝に進出するのは非常に困難になってきている 。それゆえ、中田たちが達成した準優勝という偉業に続く結果を出す、新しい黄金世代の出現が期待される。
「僕らがあのとき果たした役割は、世界を意識する、世界に出ていくキッカケを作ったことだと思っています。ちょうど98年に初めてW杯に出場し、世界に目が向いて自分たちの準優勝でさらに世界を意識するようになった。そうして伸二やイナが海外に出て行った。日本が、選手が、世界に飛び出していくところを担えたんじゃないかなと思いますし、自分たちが結果を出したことで、次の世代の選手たちにとってみればその記録を超えようという大きなモチベーションにもなった。いろんな意味で日本のサッカーに変化を与えられたのかなって思いますね」

「黄金世代はいろんな意味で日本のサッカーに変化を与えられた」(中田)
彼らをキッカケにしてサッカーを好きになった人は大勢いるだろう。国内外で活躍し、結果を残してきた世代だからこそ、いつまでもその姿が人々の心の中に印象深く残っているのだ。そのせいか中田は解説やイベントなどで仕事をしているとファンから「黄金世代」と声をかけられることが多いという。
「今も『黄金世代』ってよく言われるし、『あの世代を見てワクワクしました』とか、『楽しかったです』とか言われると、悪い気はしないですよね(笑)。自分がこの世代に貢献しているわけじゃないですけど、素直にこのメンバーに入れてよかったと思います」
そう笑みを見せる表情には、黄金世代の仲間への信頼が読み取れる。
黄金世代が今もなお支持されているのは、彼らが個性的で日本サッカーのメインロードを走ってきたのもあるが、彼らを超える世代が誕生していないからでもある。ただ、東京五輪代表を狙う世代には、久保建英ら突出した選手が出てきている。果たして、黄金世代を超える世代は生まれてくるのだろうか。
「今の東京五輪代表に絡む久保くんはいい選手ですし、彼の代には力のある面白い選手が揃っています。うちの安部(裕葵)の代もけっこういい選手がいます。でも、彼らよりもやっぱり小野伸二のほうがすごいんですよ。純粋なサッカーのうまさで考えると、日本では伸二が一番。でも、勝ちにこだわるのは満男(小笠原)のほうがすごい。その二人がナイジェリアで一緒にプレーしていたんです。いろんなチームを経験したけど、やってていちばん楽しかったもんなぁ、あのチームは(笑)」
20年前を懐かしそうに振り返り、優しい笑みを見せた。
そして、こうつづけた。
「僕は、恵まれていましたね。あの1年前でも、1年後でもあの世代は誕生しなかった。そういう意味では奇跡的でした。だからこそ、黄金世代かなって思います」
中田浩二
なかた・こうじ/1979年7月9日生まれ、滋賀県出身。2014年シーズン限りで現役を引退し、2015年より鹿島アントラーズのクラブ・リレーションズ・オフィサー(C.R.O)に就任。帝京高→鹿島アントラーズ→マルセイユ(フランス)→バーゼル(スイス)→鹿島アントラーズ
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