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世界2位の快挙から20年…当時の気持ちを語る 南雄太編

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世界2位の快挙から20年…当時の気持ちを語る 南雄太編

サッカー選手の中でよっぽどの事がない限り選手交代がないポジションはゴールキーパーでしょう。世界2位の快挙をあげた当時の正ゴールキーパーとしてゴールを守った南雄太選手。その後も日本のゴールを守ると思いきやなかなか日本代表のゴールを守ることはなかった。その後Jリーグで自陣にオウンゴールを決めるという珍プレーをしてしまった。それも、自ら豪快にボールを投げ入れる。それでも現役でプレーを続けている南選手。20年前の快挙を語っています。

南雄太が語る20年前の準優勝「小野伸二よりうまい選手はいなかった」

Sportivaより引用

 

世界2位の快挙から20年…当時の気持ちを語る 南雄太編

それは、突然の招集だった。

1999年ワールドユース(現U-20W杯)・ナイジェリア大会を控えていたU-20日本代表が、大会2カ月前にフランス&ブルキナファソ遠征を実施。A代表との兼任でU-20日本代表の指揮官も務めることになったフィリップ・トルシエ監督は、その合宿メンバーに前回の1997年マレーシア大会にも出場したGKの南雄太を急きょ招集した。

1999年大会からレギュレーションが変更され、それまで1回しか出場できなかったものが、年齢さえクリアしていれば、複数回の出場が可能になったからだ。

そしてそのまま、南は本大会に臨む18名のメンバー入りも果たした。

「最初、(小野)伸二やタカ(高原直泰)とかとは、静岡県選抜でずっと一緒にやってきて、あの世代はメンバーがそろっていたので、(一緒に)ナイジェリアに行けないのは『残念だな』って思っていたんです。それが、急きょ行けることになったので、すごくワクワクしましたね。

ただ、前回大会に出場した僕と永井(雄一郎)くんがまた呼ばれて、メンバーから落ちた選手もいる。その分、『やらないといけない』という使命感は強くなりました。自分としても、前回大会準々決勝のガーナ戦で、自分のミスで失点して負けてしまったので、それを取り戻したいというか、その壁を越えたいと思っていましたね」

南と永井のメンバー入りは、事前にプレー映像を見たトルシエ監督からの強い要望があったからでもあるが、チームに合流した南は、トルシエ監督の指導方法に面食らった。

「通常、GKの練習はGKコーチが指導するのが普通ですが、トルシエ監督が(GK練習の場にも)やってきて『あーしろ、こーしろ』と結構指示を出してくるんですよ。それは、新鮮というか、驚きでしたね。たとえば、クロスボールのときは『前に出ろ!』と散々言われましたし、前に出ないと『なんで日本のGKは前に出ないんだ』って、すごく怒られました。

クロスボールを上げて、2、3人の選手が(ゴール前に)突っ込んでくるなか、GKが前に出るという練習もやりました。その際、(トルシエ監督は)突っ込んでいく選手に対して、『GKにぶつかっていけ!』って言うんですよ。それも、試合の2日前とかに。(そんな練習には)『なんだよ』って思いながらやっていましたけど、まあ若いから(文句も言わず)やれたんでしょうね(苦笑)」

GK練習だけでなく、トルシエ監督が志向する戦術のベースとなる”フラット3”も独特なもので、習得するのは容易ではなかったという。

「あの当時、”フラット3”でラインをあれだけ高く保つとか、結構前からプレスにいくとか、Jリーグ(のクラブ)でやっているところはなかった。これは、同じメンバーで、時間をかけてこなしていかないと、息を合わせるのは難しいと思いましたね。

事前合宿でも練習しましたけど、紅白戦とか実戦形式の練習をあまりやらないので、もうひとつ感覚がつかめなかった。大会前の練習試合でもまだしっくりいっていなかったので、(本番が)ちょっと心配でした」

大会直前の練習試合、フランスのASレッドスター93(現レッドスターFC)とのテストマッチは1-0で勝利したものの、”フラット3”は不安定なままだった。ラインを上下する選手間の呼吸が合わず、相手に簡単に裏を取られた。

結局”フラット3”の肝であるラインコントロールに大きな不安を残したまま、チームはワールドユースの開催地であるナイジェリアに入った。

「現地入りしてから、トルシエ監督はA代表の試合(ブラジル戦)があって、しばらくいなかったんですよ。しかも”フラット3”はまだまだ(未完成)で、正直『どうなるんだろう』と思っていました。

それでも、初戦のカメルーン戦は1-2で負けたんですけど、自分たちのミスでやられただけで、内容的には相手をチンチンにしたんですよ。そしてその試合のあと、イングランド対アメリカの試合をみんなでスタンドから見ていて、『ここから2連勝、イケるな』って、みんなが思ったし、自分もそう確信していました」

実際、日本はその後、アメリカに3-1、イングランドに2-0と勝利して、グループリーグを首位で突破した。南はそのとき、チームに対する絶対的な自信を感じていた。

「まだ、3試合終わっただけだったんですけど、相手チームに伸二よりもうまい選手がいなかったんです。それに実際に戦ってみて、どのチームも自分らより強くないと感じた。今思えば、20年前の日本がそういう感覚を持つというのは信じられないことだけど、あの世代、あのメンバーだから、自信を持ってそう思えたんだと思います」

日本は当時、前年の1998年に初めてワールドカップ(フランス大会)に出場した。日本という国がようやく世界のサッカーに認知され始めたばかりの頃に、この若き日本の代表チームは、世代別とはいえ、世界の強豪が集う大会にあって「自分たちは強い」と思ったのだ。

世界2位の快挙から20年…当時の気持ちを語る 南雄太編

小野伸二の存在は「黄金世代」の中でも際立っていたという。photo by Yanagawa Go

そのチームの象徴とも言える存在が、小野だった。南は、小野はすべてを兼ね備えたプレーヤーとしてリスペクトしていたという。

「当時の伸二は、マジでヤバかった。本当に『すげぇな、こいつ』って感じでした。プレーだけじゃなくて、人間性もそうだし、キャプテンシーもすごかった。とにかく、チームメイトの伸二に対する信頼感がすごくて、『伸二がいれば』という状態になっていた。

あの個性的な世代がひとつにまとまることができたのは、伸二という存在がいたから。それほど、飛び抜けた存在の選手だった。

だから、あの1999年の大ケガ(※)さえなければ、どうなっていたんだろう……って思いますよね。それこそ、バルセロナとか、レアル・マドリードとかに初めていく日本人選手になっていたのかなぁって思います」
※1999年シドニー五輪アジア1次予選のフィリピン戦において、小野は相手からの悪質なタックルを受けて左膝靭帯断裂という重傷を負った。

チームは”エース”の小野を中心として、初戦の敗戦から立ち直り、決勝トーナメントに進出。以降も、1回戦でポルトガル、準々決勝でメキシコ、準決勝でウルグアイを破って、ついに決勝戦まで駒を進めた。

決勝進出に至るまでの、ポイントとなった試合はどのゲームだったのだろうか。南はこう語る。

「グループリーグ2戦目のアメリカ戦に勝ったのが大きいですけど、一番は(決勝トーナメント1回戦の)ポルトガル戦ですね。がっぷり四つに組んだ試合でしたけど、すごく苦戦した。相手GKが負傷退場して、フィールドの選手がGKになったのに、点が取れなくて……。

今も覚えているのは、バン(播戸竜二)が途中から出てきて、決定的なシュートをその(フィールドプレーヤーの)GKに取られたんですよ。そういうのもあって、なんかイヤな雰囲気だった。

結局、PK戦までもつれてしまいましたけど、”素人GK”には負けられないですからね。みんな、PK戦ではしっかり決めた。『これは手強いな』という相手に勝つことができたのは大きかったと思います。

前回大会のときは決勝トーナメントに入ると、格上の相手をなんとかして倒す、といった感覚でした。でも、このときはそういう感じはなかった。(試合を)やればやるほど、『強いな、オレらは』って思っていました」

南は1997年マレーシア大会にも出場している。チームは山本昌邦監督が指揮し、宮本恒靖がキャプテンを務め、柳沢敦、明神智和、中村俊輔らが中心メンバーだった。宮本を軸によくまとまったチームで、決勝トーナメント1回戦は突破したものの、準々決勝でガーナに敗れてベスト8に終わった。

1997年大会、1999年大会とふたつの代表チームを知り、両方の大会を経験している南だが、勝ち上がる際のチームのムードに違いはあったのだろうか。

「1997年のチームには、ツネさん(宮本)とか、(のちに2000年の)シドニー五輪のメンバーとなる選手もたくさんいて面白かったけど、”ファミリー感”は1999年のチームのほうが強かった。(1999年大会の開催地)ナイジェリアではあまり外に出られないし、何もやることがなかったので、みんないつも一緒にいた。そういう環境が大きく影響したと思います。

それに、ブルキナファソの合宿から本大会に入っても、苦しいときを一緒に乗り越えていった。それが、ファミリー感を強くして、絆の深さにつながった。だから、20年経った今も(当時のメンバー)みんなと、LINEでつながっているんです」

LINEには、ナイジェリアのワールドユースに出場した選手たちがグループで登録されている。誰かの誕生日や移籍、引退などの情報があると、通知音が鳴るという。

20年前、そんな仲間たちがひとつになって、世界の頂点を目指していたのだ。



黄金世代の南雄太は、トルシエ監督についてキングカズと語り合った

世界2位の快挙から20年…当時の気持ちを語る 南雄太編

快挙達成にはサブの選手たちの存在が大きかったと語る南雄太

1999年ワールドユース(U-20W杯)・ナイジェリア大会に出場したU-20日本代表は、グループリーグを首位通過。決勝トーナメント1回戦、PK戦に及ぶ死闘となったポルトガル戦を制すると、さらに勢いを増したチームは一体感を強めていった。

当時、チームの絆を深めることに大きく寄与したのが、サブ組の選手たちと、GKのバックアップメンバーとしてチームに帯同していた曽ヶ端準だった。バックアップのGKは、代表メンバーである南雄太か榎本達也かどちらかが、ケガなどで戦列を離れることになった場合のみ選手登録されるもので、試合はもちろん、ベンチにさえ入ることができない。

それでも、開催地となるナイジェリアは日本からの交通の便がいいわけではなく、何か起きたときにすぐに対応するのが難しい場所柄ということもあって、曽ヶ端は現地に同行することになったのである。

「ソガ(曽ヶ端)とは大会中、ずっと同じ部屋だったんです。その間は、いろいろな話をしましたね。

GKのバックアップは試合にも出られず、ベンチにも入ることが許されないですから、本当は早く(日本に)帰りたかったはずなんです。でも、ソガは練習でもすごくがんばっていたし、チームが勝ったら一緒になって喜んでいた。そんな姿を見ていたので、ソガのためにもがんばらないといけないなって思ってプレーしていました」

曽ヶ端に限らず、フィールドプレーヤーのサブ組の選手たちも献身的にチームを支えていた。播戸竜二や氏家英行らは、試合に出たい気持ちを胸の中に押し込んで、ベンチで明るく振る舞ってチームを盛り上げていた。

「ベテランの選手になると、我慢したり、大人の振る舞いができたりするかもしれないですけど、19、20歳の若い選手というのは、試合に出られないと、腐ってしまったり、(チームが)勝っても素直に喜べなかったり、そういうのがあると思うんです。

でも、あのチームのサブの選手たちはそういうことが一切なくて、常にチームを盛り上げてくれた。当時、僕はプロ入り2年目だったんですが、このチームで初めて一体感というか、”チーム”というものを実感することができました」

このサブ組の姿勢こそ、チームがひとつになるために不可欠な要素だと、南は強く感じた。無論、強い一体感を生むには、必要な要素はまだいくつかあった。

「あのチームはファミリー感がすごく強かったけど、(選手同士が)単に仲がよかっただけじゃない。お互いが”いいライバル”と意識して、それぞれが競争し、刺激し合えていたのも大きかったと思います。

また、”vs(フィリップ・)トルシエ監督”という部分でも、みんなが団結していた。毎日怒られて、胸ぐらをつかまれたり、ボールをぶつけられたりしたけど、『あいつには負けない』という反骨心がみんなにあって、チームはひとつになれたと思います」

そう南が語るように、トルシエ監督の存在はこのチームにとって、非常に大きかった。トルシエ監督はあらゆることを駆使して、チームに緊張感を与え続けていたという。

「たとえば、選手交代において(トルシエ監督は)思い切った采配を見せるんですが、途中から出てきたイシくん(石川竜也)がいきなりFKのゴールを決めたり、準決勝で途中出場した加地(亮)が相手を抑えてチームの勝利に貢献したりした。

途中出場の選手が活躍するとチームは盛り上がるし、同時にチーム内には緊張感が生まれる。普通は勝っているとメンバーをいじらない監督が多いけど、トルシエ監督はうまく選手を起用して、マンネリ化させず、常にチームに刺激を与えていました。そういうやり方が、本当にうまいなって思いました」

トルシエ監督がチームに刺激を与えていくやり方は、選手起用だけではなかった。

「毎試合、スターティングメンバーがまったくわからないのも緊張感がありましたね。試合前にミーティングをやるんですけど、そこでトルシエ監督がホワイトボードにスタメンの名前を書き出していくんです。そのときは、いつもドキドキでした。

紅白戦とかやらないので、正直何を基準に(メンバーを)決めているのかまったくわからない。それであるとき、(スタメンを)いつ、どんな理由で決めるのか? という話になったとき、(トルシエ監督は)『食事のときの選手の顔を見て決める』と言っていたんですよ。それを聞いて『マジか!?』って思いましたね(笑)」

最初は、トルシエ監督の威圧的な指導方法や強引なチームマネジメントについて、腹を立てることが多かった。だが、試合を重ねていくなかで、南は「これほど選手のマネジメントがうまい監督はいないのではないか」と思うまでになったという。

「若くて血気盛んな自分たちをうまく使いこなしていましたからね。今思うと『いい監督だったなぁ』と思います。そのことについて、カズさん(三浦知良)とも話をしたことがあるんですよ。

カズさんは『(トルシエ監督は)あの当時の日本に合っていたし、型にはまらず、(選手に)チャンスをうまく与える監督だな』と言っていました。僕も、実は(あのワールドユースに臨んだチームにおいては)トルシエ監督がいちばんチームに活気を与え、いい雰囲気を作っていたんじゃないかって思っています」

トルシエ監督がいい緊張感を持続させ、試合をこなすごとに自信を深めていったチームは、ついに決勝にまで登り詰める。

ファイナルの相手は、スペインだった。

試合前、「スペインだけは違う」とトルシエ監督は顔を真っ赤にして、相手の脅威を選手たちに説明したという。はたして、それは開始わずか数分にして、現実のものになった。

「スペインはマジで強かった。”フラット3”が全然ハマらなくて、逆に(DFラインの)裏をバンバン取られて、正直勝てる気がまったくしなかった。0-4で負けたけど、それがあの時の(スペインと日本の)実力の差でもあった。

まあでも、あそこで優勝していたら、上がなくなりますからね。スペインにチンチンにされたから、2000年シドニー五輪を目指そうという気持ちになったし、『まだまだ世界のトップは遠いなぁ』と思えたから、その先、成長できたんだと思います」

ナイジェリアに出発する際にはほとんど見送りはなかったが、日本に帰国すると、空港には大勢のファンが出迎えてくれた。南も、多くの人に祝福してもらい、今まで縁がなかった人と会える機会も増えた。

そんな”世界2位”というバブルはしばらく続いていたが、そうした状況にあっても、南は「これから」を強く意識していた。だが、ワールドユースの快挙以降、小野伸二や高原直泰、稲本潤一ら「黄金世代」の中心選手たちと、南の人生は大きく分かれていく。

シドニー五輪を目指す代表チームにあって、南はアジア最終予選まではメンバー入りしていたものの、本番の五輪代表メンバーからは漏れてしまったのだ。選ばれたGKはオーバーエイジ枠で入った楢崎正剛と、当時Jリーグでメキメキと頭角を現していた都築龍太だった。そしてまた、ワールドユース・ナイジェリア大会と同様、曽ヶ端がバックアップメンバーに選ばれた。

「ナラさん(楢崎)がシドニー五輪前にオーバーエイジ枠の選手として(チームに)合流したとき、三ツ沢競技場で一緒に練習をやったんです。そのとき、『これはレベルが違う』『現状ではとても敵わないな』って思ってしまったんです。

もっと代表にこだわって、第2GKや第3GKだとしてもシドニーに行っていれば、また違った経験ができたはず。でも、当時の自分は試合に出ることしか考えられなかったので、『第2GK以下は一緒だな』と思ってしまった。そういう態度が表に出ていたから(メンバーから)外されたと思います。

本来、どんな経験も自らの肥やしになるのに、(それを経験する前に)自分はあきらめてしまった。うまくなる人は、そういうチャンスを逃さないし、そこをバネにしてがんばることができる。当時の自分にはそれがなかったんです」

南は、のちに自らレギュラー争いを降りてしまったことをひどく後悔したという。だが、そういう姿が一度でも、指揮官の目に止まってしまった以上、南に再びチャンスが訪れることはなかった。

ここから、南は日本代表から疎遠になり、「黄金世代」と呼ばれることにも苦しむことになる。

『黄金世代』でひとり取り残されたGKの苦悩「なぜ自分だけ…」

世界2位の快挙から20年…当時の気持ちを語る 南雄太編

ワールドユースでは絶対的な存在だった南雄太だが……。photo by Yanagawa Go

1999年ワールドユース(現U-20W杯)・ナイジェリア大会で準優勝を飾ったあと、南雄太は2000年シドニー五輪の出場を目指す代表チームのメンバーとしてアジア予選に臨んだ。だが、本番の代表メンバーには選ばれなかった。

オーバーエイジ枠の楢崎正剛らとの、正GK争いの”サバイバル”から自ら降りてしまったのだ。その結果、2002年日韓共催ワールドカップに挑む日本代表においても、招集された時期もあったが、同代表での活動はほとんどなく、最終的にワールドカップメンバーにも選出されなかった。

一方で、ワールドユースの快挙以降、小野伸二や高原直泰、稲本潤一ら「黄金世代」の中心メンバーたちは、その才能が評価されて海外に飛び出していった。同時に五輪代表、さらには日本代表でも活躍するようになった。

同じチームで戦ってきた仲間の、そうした眩いばかりの姿を見て、南は焦りを募らせていた。

「同世代の選手が海外に出て行き、代表でも中心選手となっていく。なんか、自分ひとりだけ取り残されていく焦りを感じました。早くいいプレーをして『代表に戻らなきゃいけない』と思うんですが、(気持ちばかりがはやって)逆にいいプレーが全然できなくて……。みんなと同じ舞台に戻れないもどかしさを感じつつ、2005年にはチーム(当時所属の柏レイソル)もJ2に落ちてしまった。

当時のJ2は今と違って、スタジアムにはあまり観客が入っていなくて、J1とのギャップがすごかった。変なプライドもあって、『なんで自分はここにいるんだろう』と忸怩たる思いでいました。2006年にはドイツW杯もありましたが、(チームが)J2にいたので、まったく声がかからないし……。『(同世代の)みんなは海外や代表で活躍しているのに、自分は……』って、他人との比較ばかりしていましたね」

このとき、南が自らの現状と謙虚に向き合えなかったのは、”世界大会準優勝”というプライドが邪魔したことが大きい。

「自分はもっとやれるんだ」と思ったところで、それは自己評価でしかない。しかし南には、過去の栄光、実績があるという自負があっただけに、簡単に現状を受け入れることができなかった。クラブでポジションを奪われる事態に陥っていても、危機感や不安を抱くことさえなかったという。

そんな南が、ついに厳しい現実を突きつけられることになる。

「(当時所属の)柏を30歳でクビになったんです。そのとき初めて『プレーできるクラブがない。どうしよう……』という不安を味わいました。

それから、意識が変わりましたね。試合に出ているから『自分はレギュラーなんだ』という感覚、そうした驕りはなくなりました。もう、常に危機感しかなかったです」

柏から戦力外通告を受けたあと、J2のロアッソ熊本に移籍。2011年には主将となって、リーグ戦全試合出場を果たした。そして2014年、横浜FCに移籍。2017年こそ、大きなケガを負ってリーグ戦出場は1試合にとどまったが、翌2018年には復活し、25試合に出場した。

柏を離れて以降、J2という舞台であっても、もう腐ることはなかった。高いパフォーマンスを維持して、ずっと第一線で活躍してきている。

そうやってモチベーションを保って、ここまでプレーを続けてこられたのはなぜか。「あまり先を考えなくなったからじゃないですか」と言って、南はこう続けた。

「若い時は、何歳までに代表に入って、何歳で海外に行くとか、明確な目標を設定して、そこに向かっていくじゃないですか。でも僕は、柏をクビになって以降、目の前の1試合が貴重に思えるようになったんです。

よく『何歳まで現役でやりたいですか?』と聞かれるけど、そういうのもないですね。『40歳までやる』と設定すると、そこに到達した時点でもう続かないと思うんです。

今はとにかく、1年間完全燃焼してがんばる。その結果、1年でもプレーできる時間が長くなればいいと思っています。自分が『ちょっとキツイ』と思ったら(現役を)やめるかもしれないけど、そう思わないようにがんばっている感じですね」

南を含めて「黄金世代」は、40歳を目前にして今なお現役でプレーを続けている選手が結構いる。彼らとはもちろん対戦することもあるし、キャンプや合宿地などで会うこともあるという。

そのときは、それぞれの近況などを報告しつつ、いろいろな話をする。厳しい競争下に置かれていること、ケガや体のケアについての話などは、お互いに共感する部分が多いという。

「昨年はキャンプ地のプレシーズンマッチでソガ(曽ヶ端準/鹿島アントラーズ)と会って、話をしました。ソガは『若いときは、自分が出られるようにクラブも後押ししてくれるけど、今はライバルを連れてこられる』というような話をしていました。『クラブは血の入れ替えをしていかないといけないので、それは仕方がないことだけど、そこを自分の力で食い止めないといけない』と。

昨季限りで引退した(小笠原)満男も、そのシーズンが始まる前には『(自分が)成長するには競争相手が必要だよ』って言っていましたけど、そのとおりなんですよね。プロサッカー選手に安泰なんてない。自分でポジションをつかまないといけないし、それがプロのあるべき姿。

海外では、それが日常じゃないですか。実際、それが成長につながるし、本田圭佑選手が若い選手たちに向けて『海外に行け』というのは、そういう理由からだと思います」

世界2位の快挙から20年…当時の気持ちを語る 南雄太編

「黄金世代」について語る南

南が現在所属する横浜FCも選手の入れ替えがあり、GKにも強力なライバルたちが入団してくる。南は今、彼らとの競争を楽しみつつ、よりうまくなるために時間を割くようになった。

若い時は試合の映像を見ることはほとんどなかったというが、今ではJリーグはもちろん、海外の試合もよく見ているという。とりわけGKのプレーは何度も見返して、技術向上にも余念がない。

「若い時に、こういう向上心が(自分に)あったらなぁと思います」

そう言って南は笑ったが、その向上心が、今の南雄太を支えている。

1999年のワールドユース・ナイジェリア大会から、今年で20年になる。南は「黄金世代」と呼ばれることについて、どう思っているのだろうか。

「『黄金世代』っていう言葉で、多くの人が僕らのことを覚えていてくれるし、(自分のことを知らない人でも)僕が1979年生まれだと言うと『黄金世代ですね』と言ってくれる。『黄金世代』と呼ばれることにプレッシャーを感じていた時期もありましたけど、今はすごくうれしいですね。

それに、同世代の活躍がすごく気になる。試合に出ていないと『あいつ、どうしているのかな』って心配になるし、同世代が点を取ったり、活躍したりしていると、自分のことのようにうれしい。若い時はそんなことなかったんですけどね(笑)」

20年の時が経過した今も、『黄金世代』が達成したFIFA主催大会における日本男子代表チームの”準優勝”という記録は破られていない。その後、すばらしい選手が次々に登場し、レベルの高い世代がいくつもあったにもかかわらず、だ。だからこそ、世界2位という結果は、日本サッカー界の歴史のなかで、今なお燦然と輝いている。

「(『黄金世代』以降も)若くて、いい選手がたくさん出てきていると思うけど、個性があってギラギラしている選手が少ないかな、と思いますね。自分らのときは、お山の大将だらけだったし、みんなギラギラしていて、ポジションの奪い合いをしていた。だから、成長できたんだと思う。

いずれは自分たちを超える世代がポンと出てくるでしょう。そうして、ワールドカップでベスト16の壁を破ってほしいですね。そこを超えたとき、自分たちが(U-20で)ベスト8の壁を超えた時と同じように、日本サッカーがひと皮むける時だと思うので」

『黄金世代』はワールドユースでベスト8の壁をブレイクスルーしたことで歴史を作り、その勢いが2000年シドニー五輪のベスト8、そして2002年日韓共催W杯のベスト16という結果につながった。

そのインパクトと日本サッカー界に与えた影響は、計り知れないものがある。『黄金世代』は、日本サッカー界にどういう風を吹かせたのだろうか。

最後に、南はこう語った。

「(ワールドユースの)1997年大会を経験したときは、まだ世界とは大きな差があると思ったし、日本が初めて出場した1998年のワールドカップを見たときは、『世界は本当に遠いな』と感じました。でも、自分たちがナイジェリアのワールドユースで準優勝して、世界で戦えることを証明した。そして、多くの選手が海外に飛び出していった。

そこから、日本のサッカーがグッと伸びていく流れを作ることができた。『黄金世代』は、日本サッカーとしても、選手としても、世界との距離を縮めるきっかけを作ったのだと思います」

南雄太

みなみ・ゆうた/1979年9月30日生まれ。神奈川県出身。横浜FC所属のGK。若くして頭角を現し、1997年、1999年と2度のワールドユースに出場。静岡学園高→柏レイソル→ロアッソ熊本



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