お節介オヤジの呟き

世界2位の快挙から20年…当時の気持ちを語る 小野伸二編

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世界2位の快挙から20年…当時の気持ちを語る 小野伸二編

今から20年前、1999年に日本サッカー界に歴史的な快挙をあげたメンバーがいる。「黄金世代」と言われた、小野伸二、播戸竜二、遠藤保仁、中田浩二など当時の気持ちを語っている。久保建英選手がレアル移籍でサッカーの話題もつきないわけですが、久保選手が生まれる前に歴史的な快挙をあげたサッカー選手たちがいたことを忘れてはいけないですよね。

世界2位の快挙から20年……今だから語る「黄金世代」の実態 小野伸二

Sportivaより引用

世界2位の快挙から20年…当時の気持ちを語る 小野伸二編

20年前の快挙を振り返る小野伸二

「狙いは優勝ですから」

今から20年前の1999年4月4日。ワールドユース(現U-20W杯)・ナイジェリア大会の初戦となるカメルーン戦の前日、U-20日本代表の小野伸二は6本パックのペットボトルを両手に抱えながら、そう語った。

だがこのとき、チームの多くの選手はまだ、そこまでの思いには至っていなかった――。

1999年4月5日、ワールドユース・ナイジェリア大会の初戦、日本は最悪のスタートを切った。カメルーン相手に、FW高原直泰が先制ゴールを決めながらも、ミスから同点ゴールを奪われて、最終的に1-2で逆転負けを喫した。

国際大会の初戦の重要性は今も昔も変わらない。負ければ、グループリーグ突破がより困難になる。

しかし、小野は違っていた。当時を振り返って、小野が語る。

「負けたけど、初戦(の内容)は悪くないと思っていました。むしろ、そこから余計な計算をしなくて済むからよかった。もう(あとは)勝つだけなんで」

決して強がりではなかった。小野はチームに確かな手応えを感じていたのだ。

「僕は、初戦のカメルーン戦が(その後の快進撃の)最初のポイントになったと思っています。タカ(高原)の得点シーンって、大会前に自分が描いていたものと、まったく同じだったんです。

僕から(右サイドの)トモちゃん(酒井友之)に出して、トモちゃんから(中央へ)クロスを入れて、タカが決める――そういう絵が自分の中で出来上がっていて、それが現実に先制点になった。(ゴールが)決まった瞬間、『これ、夢みたいじゃん』って思ったんですよ。

(試合は)1-2で負けてしまったけど、内容では自分たちのほうが勝っていた。楽しくやれたことが重要で、まったく負けた気がしなかった。だからそこで、『自分たち、やれるじゃん』という自信を持つことができた」

負けてもなお、自信を持てるということは、なかなかないことだ。

国際大会で初戦を失うと、精神的に追い込まれることが多く、巻き返すことは容易ではなくなる。それは、日本が出場したW杯ドイツ大会(2006年)、W杯ブラジル大会(2014年)でも見られたシーンである。

だが、小野は当時も「自信を失う必要はないですよ。いいリズムで戦っていたし、ミスで負けたことで、1点の重みを全員が理解すれば、同じミスはしないでしょう」と言って、試合後に笑顔さえ浮かべていた。

その自信はどこからくるのか――。

このワールドユースに臨んだ面々はその多くが、小学生や中学生の頃から都道府県のトレセンや世代別の代表で一緒にプレーし、お互いの性格やプレーなどを熟知していた。さらに同世代は、1994年U-16アジアユース選手権で優勝。1995年Uー17世界選手権(現U-17W杯)・エクアドル大会に出場し、世界レベルも肌で感じていた。他にも、海外遠征などを通じて、多くの経験を共有し、ともに成長してきたのだ。

「もう昔から一緒にやってきたメンバーだったので、プレーで言えば”あうんの呼吸”で、とくに話をせずともやれていた。この大会のときも、特別な話はしていない。

また、A代表だと、世代も違うし、いろいろなサッカー観を持っている人がいるので、まとまるのがなかなか大変だけど、僕らは同世代だし、みんなが同じ感性でサッカーをやっていて、本当に楽しかった。僕は、それが一番大事なことだと思うし、だからこそ、”イケる”という手応えを感じていたんだと思います」

小野の言葉どおり、2戦目のアメリカ戦では、日本はオウンゴールを含めて3得点を奪取。絶対に負けられない試合で、3-1と快勝した。

ただこの試合で、チームを率いるフィリップ・トルシエ監督から、小野は後半途中に交代を命じられている。小野はピッチを去ると、厳しい表情のままロッカールームに直行した。

試合後、小野は「(試合に)勝ててよかったです。でも、自分の仕事はさっぱり……。交代させられて当然。決定的なシュートを外して、気分的に滅入って(プレーが)消極的になってしまった」と、モヤモヤした心境を語った。

続くイングランド戦も、アメリカ戦の勝利で勢いに乗る日本が試合の主導権を握った。そして、途中出場の石川竜也が鮮やかなFKを決めるなどして、2-0と勝利。日本はグループリーグの1位通過を決めた。

小野はホッとした表情を見せていたが、「もうひとつ乗り切れない」と、自分のプレーに関しては少しイライラしていた。

もちろん誰ひとりとして、小野のことをあれこれ言う選手はいなかったのだが、それでも小野は自分に厳しかった。チームの”エース”であり、キャプテンでもありながら、自分本来のプレーができず、チームの勝利に貢献できていないことが、小野には心苦しかったのだ。

 

小野がこのチームのキャプテンに指名されたのは、大会直前だった。

「(事前合宿となる2月の)ブルキナファソ遠征では、イナ(稲本潤一)がキャプテンだったので、(本番でも)そのままいくだろうと思っていたら、イナが大会直前に負傷。すべての試合に出るのが難しい状況になったので、それで自分がキャプテンを任されたと思う」

ワールドユースの前年、1998年に浦和レッズ入りすると、小野は高卒ルーキーながら、いきなりレギュラーの座を獲得。W杯フランス大会のメンバー入りも果たした。同大会のジャマイカ戦に出場し、18歳にしてW杯の舞台に立った。

技術は日本トップクラスであり、人格者であり、チームの細かいところにまで目が行き届く。試合になれば、攻撃だけではなく、守備のために自陣深くまで戻った。”天才”がそこまでする姿に、チームメイトは心揺さぶられ、自らが持っている以上の力を発揮する。

まさにチームの中で、小野は突出した存在だった。誰もが一目置いていて、キャプテンは小野以外には考えられなかった。

ゆえに、まずは自分がやらなければいけない――その意識が根本に、しかも強く刻まれていたからこそ、小野は自分に厳しかった。

「みんなが自分のことをどう思っていたのかはわからないけど、個人的には、グループリーグの3試合はまったく満足していなかった。ただ、チームのみんなは、技術レベルが高く、いいプレーをしていた。とくにモト(本山雅志)はキレッキレだったからね。そうして、ひとつずつ試合を勝っていくことで、チームとしてもまとまっていきました」

グループリーグを首位で突破した日本。決勝トーナメント1回戦の相手は、ポルトガルだった。

「個人的には、この試合がこの大会で一番大きなポイントだったと思います」

そう小野が語るとおり、ポルトガル戦は死闘になった。

試合は後半3分、遠藤保仁が先制ゴールを決めて日本がリードを奪った。そしてその後、後半27分に高原と相手GKが衝突。鎖骨を骨折したGKは負傷退場を余儀なくされる。

実はその時点で、ポルトガルはすでに3人の交代枠を使い切っていた。そのため、フィールドプレーヤーがGKを務めることとなり、ポルトガルはひとり少ない10人での戦いを強いられた。日本にとっては俄然有利な状況だが、このアクシデントがポルトガルの闘争本能に火をつけた。

日本はひとり少ないポルトガルの気迫に押され、後半35分に同点ゴールを決められると、ガクンと動きが落ちた。現地の暑さと、グループリーグ3試合を戦ってきた疲労の蓄積によって、日本の選手たちは”ガス欠”に陥っていたのだ。

トルシエ監督は流れを変えるべく、延長戦からFW播戸竜二を投入したが、ポルトガルの勢いが収まることはなかった。それでも、ポルトガルの反撃を何とか凌いで、試合はそのままPK戦に突入した。

PK戦を前にして、トルシエ監督は「蹴りたい者」を自主申告させ、小野は1番手のキッカーを務めた。その小野はじめ、日本の選手たちが冷静にPKを決めていくなかで、ベンチの選手たちは全員が肩を組んで、その様子を見守った。

ポルトガルも失敗することなく、息詰まるPK戦となったが、GK南雄太がポルトガル4人目のPKを好セーブ。その後、日本は4人目の高原、5人目の酒井もきっちりPKを成功させて勝利した。

世界2位の快挙から20年…当時の気持ちを語る 小野伸二編

PK戦までもつれたポルトガル戦を制して、さらに勢いがついた。photo by Yanagawa Go

世界2位の快挙から20年…当時の気持ちを語る 小野伸二編

酒井が決めた瞬間、センターサークルで、ベンチ前で、祈るように見守っていた選手たちが皆、ゴールに向かって走り出し、歓喜の輪ができた。

「相手がひとり少ないにもかかわらず、苦戦を強いられたけど、ああいう苦しい試合を乗り越えて勝つことが大事。カメルーン戦で”イケる”感覚をつかんで、ポルトガルに競り勝って(チームは)勢いに乗った。大会を勝ち進んでいくためには、ポイントになるゲームが必ずあるんですけど、このポルトガル戦がまさにその試合でしたね」

チームはひとつ大きな山を越えた。

小野は、カメルーン戦で自信をつかみ、ポルトガル戦で世界と互角に戦える確信を得た。本来であれば、対戦を避けたいと思うアルゼンチンなど、強豪国との対戦にも期待を膨らませていた。

「自分たちが新しい歴史を作る」

その機運がチーム内でうねりのように大きくなりつつあった。



小野伸二にとって「歴代代表監督の中でトップ」はトルシエだった

1999年ワールドユース(現U-20W杯)・ナイジェリア大会、U-20日本代表はグループリーグを首位通過。決勝トーナメント1回戦で、強豪ポルトガルを破ってベスト8進出を決めた。

準々決勝の相手は、北中米の難敵メキシコだった。

メキシコは大会3連覇を狙っていた”南米の雄”アルゼンチンを4-1で破って勝ち上がり、非常に勢いがあった。しかも、メキシコは決戦の地となるイバダンですでに3試合を消化。亜熱帯気候の蒸し暑さにも慣れていて、メキシコの”ホーム”のような状態になっていた。

一方、日本はポルトガルとPK戦にまで及ぶ死闘を演じて疲労困憊のなか、バスと飛行機で数時間かけて移動してきた。

下馬評では、メキシコが断然優位だった。

それでも、キャプテンの小野伸二をはじめ、日本の選手たちは過去2大会で越えられなかった”ベスト8の壁”を破り、「新しい歴史を作るんだ」という強い気持ちと高いモチベーションを維持していた。

さらにメキシコ戦を前にして、小野は「本音を言えば、アルゼンチンとやりたかった。世界の強豪相手にどれだけやれるのか、自分たちの力を試したかった」と話していた。それは他の選手たちも同様で、日本のチームにはそれだけの精神的な余裕と、それまでに培われた自信が満ちあふれていた。

そして、日本はメキシコに快勝した。開始4分、本山雅志のゴールで先制すると、24分には小野がヘディングでゴールを決めて、2-0とメキシコを振り切った。

世界2位の快挙から20年…当時の気持ちを語る 小野伸二編

メキシコ戦でゴールを決めて歓喜する小野伸二。右は本山雅志。photo by Yanagawa Go

小野が大会初ゴールを決めたときは、播戸竜二ら控えのメンバー全員がベンチから飛び出して、お祭り騒ぎのようになった。レギュラー組とサブ組がひとつになっていることを象徴するシーンだった。

「試合に出ていない彼らの存在は、チームにとって本当に大きかったですね」

当時を振り返って、小野はしみじみとそう語った。

ワールドユースのメンバーは総勢18名。そのうち7名がサブメンバーとなる。しかし、サブメンバーとはいえ、一人ひとりは”お山の大将”のような面々であり、若いときから自らが所属するチームではバリバリのレギュラーでプレーしてきたエリートだ。ベンチに座らせられることは、若さもあって、自分のなかで折り合いをつけるのは、決して簡単なことではない。

そのことを理解していた小野は、ポジティブなムード作りのために「練習以外の時間を大事にした」という。

「(大会に臨むにあたって)練習時間以外に、いかにチームをひとつにまとめるか――実は、それがすごく大事だと思っていました。そのために、リラックスルームに集まって、(日本から持ってきた)DVDのドラマとかをみんなで見ていました。”みんなで”という意識が大事で、一緒にいるとその意識が強くなる。それは、大会を通してできていたと思います」

播戸をはじめ、氏家英行、加地亮、稲本潤一らサブメンバーは、頭を丸刈りにするなどして、日頃からチームを盛り上げるために尽力した。試合になれば、両手に冷たいペットボトルやタオルを抱えて、プレーが中断した際には、ピッチ上で戦う選手たちに手渡しして、抜かりないサポートを心がけた。

彼らは彼らで、「自分たちがチームの雰囲気を悪くすることだけではしてはいけない」と心に決め、その一点でまとまり、最後までバラバラになることはなかった。

「控えのみんなは、練習では緊張感を高めてくれて、それ以外ではみんなと一緒にワイワイして、明るい雰囲気を作り出してくれた。試合に出られなくても腐ることなく、常にポジティブな姿勢でいてくれた。試合に出ていない選手があれだけやってくれたので、自分も含めて、試合に出ている選手は大きな責任を背負ってプレーしていたと思います」

小野は、サブとレギュラーがこれほどまでに一体化したチームを経験したのは、初めてだったという。そしてそれ以降、2002年日韓共催W杯、2004年アテネ五輪、2006年ドイツW杯などの世界大会にも出場したが、これほどまとまったチームを経験することはできなかった。

「あれだけ、試合に出ている選手と出ていない選手がひとつになるというのは、なかなかあることではない。今までサッカーをやってきて、このときほど一体感を感じられたことは、”日本代表”という立場ではなかったですね」

一体感の醸成は、トルシエ監督という指揮官の存在もとても大きかった。

トルシエ監督は、今の時代であれば、パワハラで訴えられてもおかしくないほどの、高圧的で、威圧的な言動を繰り返していた。ファイトする姿勢が表立って見えない選手に対しては、胸ぐらをつかみ、罵声を浴びせた。ゆえに、最初は露骨に嫌な表情を見せ、文句を言う選手も絶えなかった。

ただ、時間が経過するにつれて、選手たちもトルシエ監督の対応に慣れ、その対処法をつかんでいった。そのうち、選手と監督との間にも、徐々に”あうんの呼吸”のようなものが出来つつあった。

そんなトルシエ監督から、小野は大きな影響を受けたという。

「トルシエ監督は(試合に向けての)ムード作りがすごくうまかった。練習ではいつもピリピリとした空気のなかでやれていたし、試合直前のスタメン発表まで誰が試合に出るのかわからない雰囲気を作ってくれたので、レギュラー選手でさえも『もしかしたら外されるんじゃないか』という緊張感を、常に保つことができました。

たしかに最初はみんな、トルシエ監督のやり方に対してブーブー言っていましたね(笑)。日本人って、怒られるのが嫌いじゃないですか。でも、トルシエ監督はその怒り方もすごくうまいんですよ。それで、選手がピリッとするし、『何くそ!』って思って、選手みんなが団結していくんですよね。

世界2位の快挙から20年…当時の気持ちを語る 小野伸二編

トルシエ監督について語った小野

まあ、トルシエ監督の性格を知れば、愛情を持って自分たちに厳しいことを言ってくれたんだ、というのはわかりますからね。僕は、トルシエ監督があのときの若い自分たちにすごく合っていたと思います。いろいろな監督のもとでやってきましたが、僕にとっては、歴代代表監督の中ではトップですね」

トルシエ監督が、当時の日本の若きタレントたちに示したのは、サッカーだけではない。大会期間中、わざわざ現地の孤児院まで行って、その国の現実などを目の当たりにさせ、選手たちに自らがいる立場や現状について考えさせた。

「トルシエ監督は”世界を知る”という意味で、孤児院にも連れていってくれた。ただサッカーをやるだけじゃない。自分たちがどれほど裕福な環境でサッカーをやっているのか、ということを教えてくれた」

孤児院に到着し、小野ら選手たちは、最初はやや戸惑いを隠せずにいたが、しばらくして慣れてくると、笑顔で子どもたちを抱き上げて、ふれあいの時間を過ごした。そして、選手間で集めたお金を孤児院への支援として寄付した。

選手たちを孤児院に連れていくことで、トルシエ監督は「プロのアスリートは、積極的に社会貢献活動をする模範となるべきだ」という姿勢を示したのだ。

そのトルシエ監督に率いられたチームは、メキシコに勝って一段と一体感が増していた。ついにベスト8の壁を破って、準決勝に進出。ブラジルを破って勝ち上がってきたウルグアイと対戦した。

フィジカルが強く、若いながらも老練な戦術眼を持つウルグアイは、日本が採用する”フラット3”に揺さぶりをかけるなど、試合巧者ぶりを随所に発揮してゲームをコントロール。高原直泰のゴールで日本が先制するも、すぐに取り返して振り出しに戻した。

その1-1の拮抗した状態を破ったのは、FW永井雄一郎だった。スタメン起用になかなか結果で応えられず、悩みの淵にいたが、初めてのゴールはまさに値千金の一発だった。

後半、日本はウルグアイの猛攻にさらされたが、3バックを4バックに、1ボランチを2ボランチにして対抗。そうした状況のなか、再度3バックに戻すなど多少の混乱は見られたが、そのままウルグアイの攻撃に耐えて、2-1で逃げ切った。

だが、日本は大きな代償を負った。小野がイエローカードをもらって、累積警告による出場停止で決勝戦には出られなくなってしまったのだ。

「決勝に出場できなかったのは、自分の責任です。ただ、自分がいなくても、それほど心配はしていなかったですね。自分たちの目標は『世界一になる』ということ。それを実現させるために、みんながひとつになっていたし、楽しみながらサッカーをやっていましたから。

楽しいときって、自分が持っているものをたくさん出せて、いいサッカーができているんですよ。それはイコール、チームもいい方向に向かっているということ。誰かのためじゃなくて、自分たちが楽しんで、自分たちのためにやることが、結果的に国民を驚かすことにつながる。そういう意味で”楽しむ”ということは、すごく大事だったんです」

小野は20年前も今も変わらず、「サッカーを楽しむ」と言う。

もちろんそれは、幼少の頃からそういう気持ちでサッカーを続けてきたこともあるが、このワールドユースで”楽しんで結果を出すことができた”という経験も大きかった。

個々が楽しくサッカーができなければ、いろいろなことが悪循環になり、チームもうまく機能しなくなる。そのことを小野は、ワールドユースのあとに何度か経験していくことになる。

そしてスペインとの決勝戦、小野が見たものは、自分たち以上にサッカーを楽しむスペインの姿だった。



小野伸二が天才でなくなった日。「あのケガで、僕はすべてを失った」

1999年ワールドユース(現U-20W杯)・ナイジェリア大会。U-20日本代表は、歴史的な快進撃を披露して決勝進出を果たした。

1999年4月24日、ワールドユース決勝のスペイン戦。累積警告による出場停止となった小野伸二は、ベンチでひとりだけ白いユニフォームを着て、ピッチで戦う仲間たちへ声援を送っていた。

開始5分、日本はGK南雄太がオーバーステップによる反則を取られてゴール前で間接FKを与えてしまい、早々に先制ゴールを許した。以降、スペインが完全にボールを保持。シャビを中心としたパス回しに、日本はまったくついていけなかった。おそらく、スペインの支配率は70%を超えていたことだろう。

結局、日本は手も足も出ず、0-4という大敗を喫した。

小野は茫然と試合を見ていた。

「スペイン戦に関しては、日本の選手が力を出し切れていなかった、というのが間違いなくありました。初めての決勝の舞台、しかも相手がスペインということで、少し浮き足立っていた。

ただ、それを差し引いても、スペインはうまかったし、強かった。それまで戦ってきたチームとは違って、選手全員が堂々とプレーしていた。(ピッチ上で)戦った選手はそれを強く感じただろうし、いい経験になったと思うけど、僕は『優勝したかった』という気持ちが強かった。

やっぱり優勝しないと……。負けたら意味がないですし、このチームだったら優勝できるだろうって思っていたので、本当に残念でした」

チームの中には、準優勝で満足している選手もいたし、小野と同様、頂点に立てなかったことに悔しさを露わにする選手もいた。

世界2位の快挙から20年…当時の気持ちを語る 小野伸二編

日本の若き精鋭たちがワールドユース準優勝という快挙を遂げた。photo by Yanagawa Go

しかし、当時の日本は前年に初めてワールドカップ(フランス大会)に出場したばかり。サッカーの世界ではまだ”ひな鳥”みたいな国だった。U-20というカテゴリーではありながら、そんな国の代表チームがFIFA主催の国際大会で準優勝に輝いたのである。それは、世界に大きな衝撃を与えた。

「準優勝できたのは、運がよかったのもある。強豪のアルゼンチンやブラジルが勝ち上がってきませんでしたからね。とくに(優勝するためには準決勝で)ブラジルが勝ち上がってこなければいいな、と思っていたら、本当にそうなった。

あの大会では、自分が考えていることがそのまま現実になることが多くて、そのつど『これはイケるな』と思っていました。

あと、みんなが試合で自分の特徴を出して、力を出し切っていた。大会のベスト11には僕とモト(本山雅志)が選出されましたけど、日本の選手全員が選ばれてもおかしくないくらい、みんないいプレーをしたと思う」

それでも、スペインに圧倒的な差を見せつけられたのは確かだ。それから、小野の気持ちにも大きな変化が生じた。負けず嫌いの本能が喚起されたのだ。

「スペイン戦を終えて、もっとうまくなりたいと思ったし、世界にはまだまだうまい選手がたくさんいるなってことがわかった。それに、ただ楽しいだけじゃなく、もっともっと戦わないといけない、ということも感じた。

じゃあ、それを日本で……というと難しい。海外への意識がそこで生まれたし、(1年後の)シドニー五輪でまた世界と戦いたい、と思っていた。そこに向けては、実際にいい感じでやれていたと思います。あのケガをするまでは……」

あのケガをするまでは……

小野が言う「あのケガ」というのは、ワールドユースから数カ月後に始まったシドニー五輪アジア1次予選で起こったことだ。最後のフィリピン戦(1999年7月4日)で、悪意に満ちたタックルを食らって、左膝靭帯断裂という重傷を負った。人生初の大ケガは、小野のサッカーに暗い影を落とした。

「あのケガで、僕はすべてを失った。シドニー五輪もそうだし、足の感覚だけじゃなく、サッカーのイメージ全体が消えてしまった。

あそこから、自分が持っているイメージ、練習でも試合の時のようにやれていた感覚がなくなって、『あれ、なんでだろう?』と迷いながらプレーするようになってしまった。

その時、自分は『それまでの選手だったんだなぁ』と思いましたね。それほど、あのケガは僕のサッカー人生にとって、大きなターニングポイントになりました」

天才肌と言われた小野のサッカーの源は、高い技術であり、豊潤なイメージとアイデアだった。それが、映像として浮かばなくなったということは、まさに死活問題だ。あのケガ以降、小野はずっと苦しみながらプレーをすることになる。

「ケガをする前と後では、違う感覚を抱えてサッカーをやっていました。でも、そのシーズンに(当時所属していた)浦和レッズがJ2に落ちてしまい、翌2000年のシーズンではキャプテンを任されて、1年でチームをJ1に上げないといけない、というプレッシャーのなかで戦うことになった。

あれで、精神的にかなり強くなりましたね。その時、『過去の自分にいつまでもこだわっても仕方がない』『また新しい自分を作るしかない』と切り替えることができたんです。そう意識が変わったから、オランダにも移籍できた」

小野はその後、2001年にオランダのフェイエノールトに移籍。UEFAカップ(現UEFAヨーロッパリーグ)で優勝するなど、輝かしい成績を残した。

しかしそれ以降も、小野はケガに苦しめられた。あのときの大ケガが、小野の体にさまざまな歪みを生み出して、安定していいプレーを続けることを妨げる原因となっていたのだ。

世界2位の快挙から20年…当時の気持ちを語る 小野伸二編

自らのサッカー人生を一変させた「ケガ」について振り返る小野

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今年、小野は40歳を迎えるが、北海道コンサドーレ札幌でプレーを続けている。

ワールドユースでともに戦った仲間はすでに多くの選手が引退し、昨シーズン限りで小笠原満男も現役から退いた。「黄金世代」の現役プレーヤーは年々少なくなってきている。

「あのナイジェリアから20年が経過して、まだサッカーを楽しみながらやれているので、ほんと幸せな環境にいるなって思います。同世代もまだプレーしている選手が多くいるし、ヤット(遠藤保仁)は常にスタメンで出ている。そういうのを見るとうらやましいし、すごく刺激になりますね」

そう言って、小野は優しい笑みを浮かべた。

ガンバ大阪の遠藤以外にも、稲本潤一(SC相模原)、南(横浜FC)、本山(ギラヴァンツ北九州)、永井雄一郎(FIFTY CLUB)らは、まだ現役でプレーしている。彼らがプレーで注目を浴び、話題に挙がるたびに「『黄金世代』はすごい」とニュースになる。サッカーファンをはじめ、サッカーをあまり知らない人でも、小野や稲本の名前は知っており、「黄金世代」という呼称は世間一般に広く定着している。

「黄金世代」と称されることについて、小野はどう思っているのだろうか。

「あまり気にしたことはないですね。『黄金世代』って呼ばれても、『あ~、そうなんだ』って感じ。でも、嫌な感じはしない。僕らが出てきて、日本サッカー界に何かしらの貢献ができているのなら、僕らが出てきた意味があるのかなと思う」

小野は乾いた口調でそう言った。その中心にいる選手にとって、「黄金世代」という呼称に特別な思いを抱くことはないのだろう。

しかし「黄金世代」は小野を筆頭に、ワールドユース以降、2000年シドニー五輪の主力となり、2002年日韓共催W杯、2006年ドイツW杯でも多くの選手がメンバーに名を連ねていた。日本サッカー界において、一大勢力となり、大きな風を吹かせた。

 

小野にとって、「黄金世代」とはどういう存在だったのだろうか。

「いい刺激をもらった仲間ですね。僕はいつも、同世代を意識していました。同じチームにいる時も、離れている時も、ライバル意識を抱いていた。

タカ(高原直泰)をはじめ、イナ(稲本)、ヤット、(小笠原)満男、モト、(中田)浩二らと、昔から戦ってきた選手がいるなかで、僕はこの世代の中では誰にも絶対に負けたくない。僕はこの世代の中でトップになりたいと思ってやってきた。

みんな、貪欲だし、サッカーを楽しむという気持ちが強い。そんな仲間が僕を成長させてくれたんです」

20年の時が経過した今も、それは変わらずに続いている。

所属の札幌では、ひと学年上の河合竜二が今年1月に現役引退を発表、稲本がSC相模原に移籍したことで、小野がクラブ最年長の選手になった。

それでも、技術はまったく錆びついていないし、イメージやアイデアは誰よりも豊富だ。ピッチに立てば、その存在感はグッと増すばかりである。

「もっとサッカーを楽しみたい。若い世代には、技術とかイメージでは負ける気がしないんで。僕らの世代が少しでも長く、日本サッカーを盛り上げていきたいと思います」

おそらく、小野の技術はこれからも長く、他人に負けることがないだろうし、サッカー人としての魅力や完成度は、今後さらに増していくだろう。

そんな小野には、ひとつの夢がある。

「ナイジェリアのワールドユースで戦ったメンバーで試合をやりたいんです。まだ、みんな動けるじゃないですか。チャリティーとか何でもいいので、あのときの仲間と一緒にサッカーをやりたいですね」

小野は嬉々とした表情でそう言った。

「黄金世代」の同窓会――。

それは20年前の、ワールドユース・ナイジェリア大会のときと同じように、最高に楽しいサッカーになるに違いない。

小野伸二

おの・しんじ/1979年9月27日生まれ。静岡県出身。北海道コンサドーレ札幌所属のMF。日本サッカー界屈指の「天才」プレーヤー。1995年U-17世界選手権、1999年ワールドユース、2004年アテネ五輪に出場。W杯出場は3回(1998年、2002年、2006年)。清水市商高→浦和レッズ→フェイエノールト(オランダ)→浦和→ボーフム(ドイツ)→清水エスパルス→ウエスタン・シドニー・ワンダラーズ(オーストラリア)




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