口に出しては味ない、味ない
鬼平犯科帳 第十八巻 馴馬の三蔵より
大滝の五郎蔵や小房の粂八のように、改心して盗賊から密偵になったものは多い。盗賊たちからは狗(いぬ)と蔑まれ、ときにはかつての仲間を売らねばならない。平蔵のためなら死んでもいいと覚悟を決めながらも、思いが揺らぐこともある。
粂八は恩義のある馴馬の三蔵を見かけ、平蔵に報告できずに苦悩する。打ち明けようとする粂八に、平蔵は「何も言うな」と制する。暗い過去を背負う密偵たちの辛さを、平蔵は承知していた。
鬼平の言葉 現代を生き抜くための100の名言より引用
「あらすじ」
粂八は兄貴分と慕う
馴馬の三蔵のお盗めを偶然知ってーーー
盗賊・鮫洲(さめず)の市兵衛の女だったお紋は、盗賊時代の小房の粂八とわりない仲になり、市兵衛から逃げたいと訴えた。粂八は、兄貴分・馴馬の三蔵(さんぞう)の女房・おみののもとにお紋を預ける。ところがお紋とおみのが何者かに殺されてしまった。三蔵は行方をくらましてしまうが、粂八は市兵衛を犯人だとにらんで追い続ける一方、三蔵に対する恩と負い目も忘れたことはなかった。月日が流れ、密偵となった粂八は、料理屋「万亀(まんかめ)」に居座り盗めをしかけようとしている三蔵を偶然発見する。
原作より
居座り盗(つと)めというのは、たとえば料理屋の客となって酒飯をし、勘定をすませたのちに、小用にでも立つふりをして、屋内の一角に隠れてしまい、夜がふけてからあらわれ、外の仲間を引き入れるとか、または単独で盗みをする
こうしたときに、履物が残っていては怪しまれるので、そこは、いろいろと技巧を要するわけだが、たとえば、いったん履物をはいてから、
「お庭が結構だ。ひとまわりさせて下さいよ」
などといって、外から屋内へまわり込み、隠れてしまう
そうしたことは、居座りを得意とする盗賊にとって、
「わけもない・・・・・・」
ことなのである
三蔵が野槌一味の盗めに加わったとき、顔を合わせた粂八は、
「三蔵さん。何とも申しわけがねえ。とんでもねえことを、おれはしてしまった・・・・・・」
血を吐くようにいったとき、三蔵は、
「なあんだ。おみのといっしょに殺された女というのは、お前がつれてきたのか・・・・・・」
そういったきり、いささかも粂八を咎めようとはせず、また恨みがましい言葉を口に出さなかった
「ま、仕方もねえことだ。それじゃ別れるぜ。これから先、二度と会えるかどうか・・・・・・それにもう一つ、死んだ女のことは、きっぱり忘れるがいいぜ」
これが、別れとなった
それから十何年もたったいま、浅草・橋場の料理屋〔万亀〕の物置小屋へ消えた馴馬の三蔵を見たとき、
(あ・・・・・・三蔵どんは、居座り盗めをやりなさるつもりだな)
と、粂八は見て取った
それから間もなく、小房の粂八は、小西屋久兵衛と伊勢屋太七を舟に乗せ、引きあげることになった
「親方。すこし、顔が青いよ。気分でも悪いのかえ?」
「いえ、そんなことはございませんよ。旦那の気の所為でございましょう」
さりげなく笑った粂八は、
「先へ出ております」
この料理屋の舟着きへ出て行った
このとき粂八の肝(はら)は、もう決まっていた
いかに盗賊改方の密偵をつとめてはいても、
(馴馬の三蔵さんを、売るわけにはいけねえ)
密偵には密偵の義理がある。何が何でもお上のためにはたらくとはかぎっていない
(長谷川様、今度だけは、見逃してやって下さいまし)
粂八は、胸の底で手を合わせた。
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