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アニメ界の巨匠が逝ってから約1ヶ月が経ちましたがなかなか地上波での放送がありませんでした。そんな中、昨日(5/18)金曜ロードShow!で放送されました。放送をご覧になった方も沢山いらっしゃるとは思いますが見逃した方は下記の方法でご覧ください。
※この情報は2018.05.19現在の情報です。

『かぐや姫の物語』、もっと深く洞察できる3つのポイント

シネマズ by 松竹 配信記事より引用

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本作は、製作経緯を追うだけで頭がクラクラしてきそうな大労作になっています。何しろ、日本画のような“かすれ”や“筆のタッチの荒さ”を再現した絵を動かすため、通常のアニメの3倍の作画が必要となり、総作画枚数は50万を超え、製作期間は約8年にも及び、製作費は50億円以上に膨れ上がり、スタッフやプロデューサー陣はボロボロになっていったのですから。進捗状況も遅れに遅れまくり、一時は完成予想日が2020年(!)と算出されていたのだそうです。

そこまでの苦労を乗り越えて作り上げられた本編では、かぐや姫が野山を駆け回ったり、翁が烏帽子を入り口にぶつけてしまったりといった、繊細な“日常的な動作”にも並々ならぬこだわりを感じられます。かぐや姫が急に成長したり、空を飛ぶといった“アニメでしかできない”“ジブリらしい”シーンの数々もこれ以上なく魅力的に仕上がっていました。

その多大な労力から生まれたアニメーションの面白さに身を任せるだけでも楽しい映画ですが、その物語には多層的なメッセージやテーマが込められていることにも気づくことでしょう。ここでは、『かぐや姫の物語』本編の内容に踏み込んで、もっと面白くなる3つのポイントをまとめてみます。

※本記事は筆者の見解及び推測を含んでおります。違うご見解の方もいらっしゃるとは思いますが、何卒ご容赦ください。

※以下からは『かぐや姫の物語』本編のネタバレに触れています。映画をまだ観たことがない方はご注意ください。

御門のアゴが長い理由とは?

本作が以前に地上波放送された時、Twitterで盛大にイジられていたことがあります。それは、「かぐや姫に求婚してくる御門のアゴが長い!」ということです(ネット上では御門ではなく“帝”と書かれることが多いようです)。

誰もが「なぜこんなにも長いアゴにしたのか?」と疑問に思うでしょう。実は、スタッフが初めは石作皇子(5人の貴公子のひとり)として描いたキャラを御門に変えてみようかと考えていた時に、高畑勲監督から「美男だけど、一箇所バランスを崩して観てはどうか、例えばアゴとか」と言われたことをきっかけにして、このアゴだけが突出したキャラクターが生まれたのだそうです。

とは言え、高畑監督が何も考えなしにこの発案をした訳ではないと思います。何しろ、この御門はかぐや姫に断りもせずに後ろからいきなり抱きつくという、現代では性犯罪と断言できること(ただし平安時代では当然のように行われていたであろうこと)をしているのですから。御門の長いアゴという“いびつさ”はその生理的な嫌悪感をさらに助長させます。普通のイケメンのキャラクターデザインであったら、ここまでのキモさを感じることはなかったでしょう。

また、中盤にはかぐや姫が初潮を迎えたと思しきシーン(媼が翁にひそひそ話をして翁が「なんとめでたい」と喜ぶ)があったり、翁が高貴な位の者が来ると知って「夜伽の準備をせねば」と言っていたりと、かぐや姫が明らかに“性の対象”になることが示唆されています。これらの性に対する後ろめたさや気持ち悪さが描かれているからこそ、御門に抱きしめられるシーンのおぞましさがさらに際立っています。

何より、帝に後ろから抱き寄せられたことこそが、かぐや姫が「月に帰りたい!」と本気で願ったことにつながりました。宮中の厳しいしつけや暮らしにも、望まない求婚にも我慢し続けていたかぐや姫でしたが、いきなり後ろから抱きしめられることだけは耐えられなかった……。彼女の限界、その生理的な嫌悪感が極に達した気持ちに同調できるという意味でも、御門のキモくて長いアゴは必要だったと言えるのです(冗談抜きで)。

余談ですが、Twitterで人気を集めるもう1人のキャラに女童(めのわらわ)がいます。とにかく「可愛い」「癒し」と言われている彼女はかぐや姫の理解者としても重要な存在で、襲名の宴の時もすぐそばにいてくれたり、外に出られないかぐや姫のために桜の枝を持ってきてくれたりと、その優しさにもほっこりしますよね。ちなみに、女童がクライマックスで月の住人に眠らされなかったのは“子どもにはまやかしの類が通用しない”ためだったのだとか。ジブリ作品である『猫の恩返し』には女童にそっくりな“ナトル”というキャラもいるので、そちらもぜひチェックしてみてください。

本編で描かれなかったプロローグが存在していた! “姫の犯した罪と罰”の意味とは?

実は、高畑監督監督が構想していた“プロローグ”が、脚本段階では存在していたのだそうです。その内容について、簡単に紹介してみます。

月の住人にとって、地球は“穢れ”のある危険な場所でした。しかし、月に住むかぐや姫にとって、地球はあらゆる豊かな“生”を感じることができる魅力的な場所でした。

ある時、かぐや姫は以前に地球に降り立ったことのある女性(「羽衣伝説」のひとり)の記憶を呼び覚ましてしまいます。その女性は嘆き苦しんでしまい、かぐや姫は彼女の代わりに地球へ降り立つことを命じられます。かぐや姫にとって、それは願ってもないことであったので、快く受け入れました。この時、かぐや姫は父王の言葉に耳を貸すこともなく、ただただ目を輝かせて地球に行くことを楽しみにしていました。

ただし、地球で暮らすためには条件がありました。それはかぐや姫が地球人として暮らすこと、月での記憶を消すこと、地球に金銀財宝の仕送りをさせること、そしてかぐや姫が一度「帰りたい」と願えば、強制的に月へと戻すことです。かぐや姫はこの条件をのみ、地球へと送り届けられ、そして翁と出会います。(プロローグ終わり)

本編でこのプロローグが語られなかったのは、高畑勲監督の「かぐや姫の本当の物語を探り当てさえすれば、プロローグなどなくていい」という意向によります。終盤のかぐや姫および月の住人たちのセリフから、(このプロローグがなくても)これらの彼女の過去にあったことが十分に想像し得るものになっている、というのも驚異的なことです。

また、本作には“姫の犯した罪と罰”というキャッチコピーがつけられています。このプロローグ通り、かぐや姫の罪とは“地球で生きるという憧れを抱いたこと”、罰とは“穢れのある地球で苦しみを味わう”ことだったのでしょう。

高畑勲監督が描きたかった“かぐや姫の本当の物語”とは? そして“生きること”の尊さとは?

では、高畑勲監督が探り当てたかった“かぐや姫の本当の物語”とはどういったものなのでしょうか。ごく端的にまとめるのであれば、それは“かぐや姫の行動の理由”を追うことで、“感情移入ができる1人の女性像を浮かび上がらせる”ということでもあったようです。

思えば、原作の「竹取物語」のかぐや姫は、ひどく感情移入がしにくい人物でした。表面上だけ拾えば、“求婚してきた貴公子たちに無理難題を与える意地の悪い女性”なのですから。しかし、この『かぐや姫の物語』では、貴公子たちの“ものの例え”を聞いたかぐや姫が「その得難い宝を私にお持ちください。その方と私は結婚します」と答えています。つまり、原作にあった無理難題が“結婚をしたくないがための口実”に変わっているのです。

かぐや姫はもともと天真爛漫で、野や山を駆け楽しそうに暮らしており、捨丸兄ちゃんと一緒になって違った生き方ができた可能性もありました。しかし、そんな彼女が自分を押し殺すように宮中の掟に従っていくしかなかったこと、自分のせいで貴公子の1人が死んでしまったと信じて苦しむということには……胸が締め付けられることでしょう。

こうした“原作の再解釈”および、かぐや姫に現代の女性にも通ずる辛苦を味合わせたということが、『かぐや姫の物語』の最も重要なポイントと言っても良いでしょう。勝手に行われた襲名の宴や、望まない結婚を至上の喜びだと勝手に言われてしまうというのも、現代にもある悪しき男性優位の風習そのもの。かぐや姫を1人の感情移入がしやすい女性として描くと同時に、作品にはフェミニズムの精神もはっきりと表れているのです。

そして、本作では“生きること”の尊さも描いていると言えます。何しろ、かぐや姫は月の住人に連れ去られる前に「この世は穢れてなんかいないわ。みんな彩りに満ちて、人の情けを…」と声を荒げていたのですから。彼女は、地球上でたくさんの苦しい想いをしたのに、それでも“彩りに満ちていた”とその記憶を肯定しようとしていたのです。

月の世界は苦しみがなく、老いることも死ぬこともない、極楽浄土のような場所でした。一方で、地球では草木や花が生い茂り、喜びに溢れていますが、悲しみや辛いこともたくさんあります。どちらが“生きているか”と問えば、やはり後者なのでしょう。それは、現実の世界に生きている私たちも同じです。苦しみも悲しみも喜びも含めて、それでこそ“生きている”と言えるのですから。

高畑勲監督の、この“生きること”についての洞察は、鋭いと同時に、辛辣さをも感じさせます。そうした現実で生きることの困難さは、『火垂るの墓』で特に残酷に描かれていました。

※『火垂るの墓』の記事はこちら↓
高畑勲『火垂るの墓』を読み解く3つのポイント

一方で、高畑監督は『ホーホケキョ となりの山田くん』で、「もっと楽に生きていけばいいよ」という正反対のテーマを掲げています。

※『ホーホケキョ となりの山田くん』の記事はこちら↓
高畑勲監督の最高傑作は『ホーホケキョ となりの山田くん』である! 厳選5作品からその作家性を語る

そして、『かぐや姫の物語』では最終的に“生きること”そのものを肯定しています。高畑監督は、1つの意見と、それと正反対の意見から総合的な見識を得る“弁証法”を用いているとも評される作家であるので、このように作品をまたがって弁証法を用いていた、とも言えるのかもしれません。

「かぐや姫の物語」で高畑勲は何を伝えようとしたのか

2018年5月18日 (金) 10:00 配信 エキサイトレビュー より引用

宮崎駿が「かぐや姫」に抱いた疑問

「かぐや姫の物語」は2013年11月に公開された。同じくスタジオジブリ作品である宮崎駿監督の「風立ちぬ」より4カ月遅れとはいえ、高畑・宮崎両監督の作品が同じ年に公開されたのは、1988年に「火垂るの墓」(高畑)と「となりのトトロ」(宮崎)が同時上映されて以来、25年ぶりのことだった。

これに合わせ、翌年1月発売(2014年2月号)の「文藝春秋」誌上では、両監督にジブリの鈴木敏夫プロデューサーを交えて鼎談が行なわれている。その冒頭、宮崎と高畑がお互いの新作について編集部より感想を求められ、まず宮崎が次のように「かぐや姫の物語」で気になった場面をあげた。

《『かぐや姫』を観たときにね、長く伸びた竹を刈っていたでしょう。筍というのは、地面から出てくるか出てこないときに掘らなきゃいけないんじゃないかとドキドキしたんですけど》

この描写は映画の前半、翁(おきな)が幼いかぐや姫を連れて竹林に入る場面で出てくる。たしかに翁は、かなり成長したタケノコを根元だけ残して鎌で刈り取っていた。私たちのイメージするタケノコは、宮崎の言うように、あまり伸びきらないうちに「刈る」というよりは「掘り出す」ものだろう。しかし、高畑はこの宮崎の疑問に対し、《真竹だからあれでいいんですよ。孟宗竹だったら宮さんの言うとおりなんですけど、当時、孟宗竹は日本に入ってきていない。ちゃんと調べたんです(笑)》ときっぱり答えている。ちなみに孟宗竹(モウソウチク)が中国から日本に入ってきたのは18世紀なので、「かぐや姫」の原作『竹取物語』が成立したとみられる時代より約800年もあとだ。

それにしても、「ちゃんと調べたんです」という言葉からは、高畑の自信に満ちた顔が浮かぶ。鈴木敏夫はべつのところで、宮崎駿が《すべてをイメージで作るタイプ》なのに対し、高畑はまったく逆で、《細部にこだわって、とことん調べる人》と両者の違いを説明しているが(「文藝春秋Special」2013年冬号)、タケノコの描写一つとっても、そうした高畑の志向がうかがえる。

「ハイジ」を思い出させる「かぐや姫」の一場面

「かぐや姫の物語」は企画が始動してから8年がかりで完成した。もともとこの企画は、高畑が1950年代、まだ東映動画(現・東映アニメーション)の新人だったころ、内田吐夢監督により『竹取物語』を映画化する話が持ち上がった際に思いついたアイデアがもとになっていた。そこから数えれば、じつに半世紀以上もの時間がかかったわけだが、ジブリ側からあらためてこの企画を持ちかけられた当初、高畑は自分でつくるつもりはないと頑なに拒んだという。

そもそも高畑は、企画を提案されても、それが本当に自分がつくるべきものなのか、時間をかけて熟考するのが常であったらしい。ズイヨー映像(現・日本アニメーション)に所属していたころ、テレビアニメ「アルプスの少女ハイジ」(1974年)の企画を持ちかけられたときもそうだった。

高畑は、スイスの児童文学者シュピーリによる原作を愛読していたものの、映像化するなら実写でやるべきと考え、アニメーションでやる意義を見いだせなかったという。だが、考えに考えた末、ハイジの感情などをアニメならではの表現で見せる手法へとたどり着く。その具体例として後年、彼がよくあげたのが、シリーズの第1話で、ハイジが初めて連れて来られたアルプスの山に感激し、重ね着していた服を全部脱いで走り出すシーンだ。原作のハイジは脱いだ服をきちんとたたむのだが、アニメでは脱ぎっぱなし、しかも彼女が走るのは、子供にはとうてい登れそうもない急斜面だった。高畑は、ハイジの心が解放され、躍動するさまを表現するため、このようにあえて現実にはありえない描写にしたのである。

じつは「かぐや姫の物語」にも、この「ハイジ」第1話を思わせるシーンが出てくる。それは、かぐや姫の名づけを祝う宴で、出席した人々が彼女の気持ちなどまったく構わず、あれこれ言い立てるのに嫌気が刺して、屋敷を飛び出すシーン。このとき、もはやその場にいられないと思ったかぐや姫は、たまらず駆け出すと、屋敷の戸という戸を突き破り、着飾った衣服もすべて脱ぎ捨て、自分の育った山に向かってひた走る。その描写からは、怒りとも悔しさとも悲しさともつかない彼女の気持ちが痛いほど伝わってくる。主人公の気持ちのベクトルは正反対とはいえ、感情をアニメーション的な表現で表現した点では「ハイジ」とまったく同じだ。

たじろぎ、ひるむ高畑作品の登場人物

高畑勲は、現在の日本のアニメーションの土台を築いた貢献者の一人でありながら、その後の傾向には疑問を呈することも多々あった。ときにはこんなふうにジブリ作品に対しても批判の矛先を向けている。

《多くの日本のアニメの主人公は何事もたじろがないし、ひるまない。現実離れしているんですよ。平凡な少女に見える『千と千尋』[引用者注――宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』2001年]のヒロインでさえ、普通なら立ちすくむような場面でも、迷わず行動するんですから》(「プレジデント」2003年8月4日号)

またべつのところでは、高畑は「アルプスの少女ハイジ」や「母をたずねて三千里」(1976年)などで自身もかかわった「世界名作劇場」シリーズについて、ほかのアニメと対比しながら次のように語った。

《二十世紀になって、子供の気持ちを生き生きと開放する文学が出てきたのは素晴らしかった。でも場合によっては、快楽主義、癒し、慰めしかもたらさないものになります。子供の心を開放すると言えば聞こえはいいけれど、子供を甘やかして終わる場合もある。アニメはもっとそう。主人公が愛と勇気で危機を打開する。どこで修行したんだろう? 愛と勇気だけで強くなれるの? と僕は言いたい。
僕がやったものだけじゃなくて、こういうシリーズの持っている、日常的に付き合っていく中での様々なヒダヒダを描くこと。生活していく中には耐えなくちゃいけないこともあるし、輝くときもある。生きていく上ではいろいろあるんだっていうことを子供たちに知らせる意味で、こういうシリーズは存在し続けて欲しい気がします》(「TVシリーズ「世界名作劇場」のこと」、高畑勲『アニメーション、折にふれて』岩波書店)

考えてみれば、子供向けの作品にかぎらず、高畑が一貫して作品で描いてきたのは「生きていく上ではいろいろあるんだっていうこと」ではなかったか。

高畑作品の登場人物たちは、生きているなかで起こる危機に対し、愛と勇気、あるいは特殊能力で乗り越えたりはしない。彼らは現実の私たちと同じように、まずはたじろぎ、ひるむのだ。全体的にのほほんとした雰囲気の漂う「ホーホケキョ となりの山田くん」(1999年)にさえ、山田家の主であるたかしが、暴走族(といっても、ちょっといきがった若者が数人でスクーターを乗り回しているだけなのだが)に対し、ひるみながらも注意しようとする場面があった。

高畑作品の子供たちは生きていくため、ときに盗みすら働く。「火垂るの墓」では、戦中・戦後の食糧難のなか幼い妹と二人だけで生きていく道を選んだ清太少年が、畑で野菜を盗み続けたあげく、農夫に見つかって袋叩きに遭い、交番に突き出されるシーンがあった。「かぐや姫」でも、かぐや姫の幼馴染である捨丸が、都で鶏を盗んで逃げ回っているところを彼女に声をかけられ、立ち止まったところで大人たちに捕まり殴られてしまう。彼らはけっして愛と勇気では救われない。高畑はそんなふうに現実を、作品によっては残酷なまでに描いたのである。

かぐや姫は「現代女性」だった?

「火垂るの墓」の製作にあたり、野坂昭如の原作小説を読んだ高畑は、わずらわしい人間関係を断ち切り、兄妹だけで生きてゆこうとする清太に現代の少年の姿を見たという(「「火垂るの墓」と現代の子供たち」、高畑勲『映画を作りながら考えたこと』徳間書店)。その意味において同作は、現代の子供がもし戦時中にタイムスリップしたらという一種のシミュレーションを試みたともいえる。

「かぐや姫」についても、高畑は構想をまとめるにあたり、かぐや姫を現代の女性と仮定して、次のように記していた。

《たとえば、かぐや姫を現代女性と仮定してみるとどうだろうか。翁のすることなすこと、少女時代から室内に籠もりきりの女性の暮らし深窓の麗人)、不自然な眉抜きと眉描き)やお歯黒、女性を所有することしか考えていない一方的な男の求婚とその結果、相手だけが頼りの結婚生活待つ女すべて堪えがたいことばかりではないだろうか。さらに、現代女性ならば、ほんとうはこうありたい、こうもしたい、という意志があるにちがいない。当時の社会通念に反したあのかぐや姫の毅然たる男性拒否も、「自由恋愛」を信ずる現代女性ならば、むしろ当然ではないか。この人こそはと思える相手にみずから出会えることを欲したはずである》(太字の部分は原文では傍点。「『竹取物語』とは何か」、高畑勲『アニメーション、折にふれて』)

このあとで高畑は《しかし、かぐや姫は現代女性ではない》と否定しているとはいえ、この映画を観た女性には自分とかぐや姫を重ね合わせた人も多いはずだ。鈴木敏夫は「かぐや姫」だけでなく、「ハイジ」や「赤毛のアン」(1979年)といい、27歳のOLが自分探しの旅に出る「おもひでぽろぽろ」(1992年)といい、高畑は女性映画の名手だったと評しているが(「美術手帖」2014年1月号)、たしかにうなづける。

余談ながら、安倍政権が「女性が輝く社会づくり」を政策に掲げたのは、ちょうど「かぐや姫の物語」が公開される前後のことだ(公開の翌年、2014年には首相官邸に「すべての女性が輝く社会づくり本部」が設置されている)。もちろん、時期が重なったのは偶然にすぎないが、「かぐや姫」の作中、「光輝く」という意味からそう名づけられたかぐや姫が、命名を祝う宴を境に輝きを失っていくさまは、いま観ると、国の政策に対する痛烈な皮肉にも読める。

表現も世界観も外に開かれた映画をめざして

「アルプスの少女ハイジ」製作時に日本のアニメでは初めてとされる海外でのロケハンを行なうなど、風景や日常生活のディテールを描き出すことに徹底してこだわってきた高畑だが、「となりの山田くん」では、誰もが知っているものは省略する表現手法へと転換する。

「かぐや姫」でもこれを踏襲するとともに、原画の線の勢いを活かすため、あらゆるものを輪郭線で完全に区切らないよう描く手法がとられた。高畑いわく《きれいに輪郭線で区切って中を塗ると、線よりは面の絵として捉えちゃうわけです。そうするとぜんぜん線が活きなくなる》からだという(「ユリイカ」2013年12月号)。そこには絵巻物など日本絵画からの影響があった。再び彼の発言から引用すると……

《西欧だと絵はひとつの小宇宙ですから、外界に開いていなくて、限られた絵の中を空間としてきちんと構成しなければならない。それに対して日本は閉じている感覚が乏しいので、どんどん外に開いていくし、構図だってどんどん流れていきますから決まりようがない。それが面白いんですね》(前掲)

こうした「開かれた」表現にたどり着いたのは、高畑作品を貫くテーマや世界観からいっても必然だったのではないか。前出の「ユリイカ」のインタビューの終わりがけで、高畑は自分が映画づくりにおいてめざしていることを、次のように語っていた。

《映画の中の時空が現実の時空と通じ合っていてしかるべきだと思うんですね。密室でめくるめく体験を見せて興奮させるとか観客の願望をかきたててそれを満たして「あーよかった」と終わる映画は嫌いなんです。だって映画の中でいくら願望が満たされても、“癒される”だけで、現実を生きていく上で何の役にも立たないですよね。(中略)結局、現実に還る以外ないと思うんです》

「火垂るの墓」のラストシーンで、終戦直後に死んだ清太たちの亡霊の前に現代の都市が現れように、高畑作品には必ずどこかで「現実に還る」ところがあった。それだけに、観る人によって好き嫌いがはっきり分かれるだろうし、登場人物に共感しにくいところもあるかもしれない。しかし一つの世界に閉じていないからこそ、彼の作品にはさまざまな読解の余地があるといえる。高畑が観客に求めていたのも、自作をきっかけに何かを考えてもらいたいという、そのことに尽きるのではないだろうか。
(近藤正高)


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『かぐや姫の物語』を自宅でみる方法

冒頭にも書かせて頂きましたがこの情報は2018.05.19現在のものです。映画やドラマ、アニメなどを自宅で視聴する方法でもっとも手軽なのは動画配信サービス(VOD)です。その大手VODで『かぐや姫の物語』の配信がされているかを調べてみました。

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